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愛の夢

稲垣えみ子さん著 『老後とピアノ』 を読む。
スポーツ漫画のような、 血の滲むピアノへの取り組みが 読む方もしんどくなるほどの切実さで書かれているのとともに、 稲垣さんが痺れ陶酔されたアーティストや楽曲の紹介が、 各章ごとにあり そこで目なのか、 こころが釘付けになったのが
イスラエルのピアニスト ダニエル・バレンボイム氏について。

わたしはクラシックはまったくうとくて、 そんな積極的に聴いたりもしないから、
紹介されていた他のピアニストと同じく、 この方の名前も初めて知ったのだけど 演奏を聞かずに、 目と心まで惹きつけられたのは、 バレンボイム氏のことを書かれている稲垣さんの言葉が、 息で膨らます風船みたい、 立体的なこともあってなのか 文章から、 彼の弾くピアノの一音が、 胸に響くのを感じてしまう、 思いになる。

ダニエル・バレンボイム氏について書かれたところの抜粋

 きっかけは、 偶然読んだ新聞記事だった。 氏はイスラエル国籍を持つユダヤ人だけれど、 イスラエルのパレスチナに対する軍事攻撃に公然と反対する発言を繰り返していると知り、 その豪気に驚いたのである。

 我が国では芸能人が少しでも政治的発言をすれば袋叩きにあう昨今だ。
事情は違えど、 どの国の芸術家であれ政治的な発言をすれば失うものが少なくないことは想像に難くない。 しかもパレスチナ問題といえば日本の政治問題など及びもつかぬ、 複雑な長い歴史が絡まりあった、 血で血を洗う、 一筋縄ではいかない大政治問題だ。 そこから逃げることなく、 憎しみの連鎖を断ち切らねばならぬと明確に述べる氏の勇気と愛に驚かずにはいられなかった。

 さらに氏がすごいのは、 実際に音楽を通してパレスチナとの対話を重ねていることだ。 パレスチナ人の友人と管弦楽団を創立。 イスラエル、 アラブ、 イランの若手奏者を集めて演奏活動を続けているのである。 「全員が信じているのはただ一つ、 軍事的な解決も政治的な解決もない。 あるのは音楽や友情、 議論を通じた人間的な解決だけだということだ」

稲垣えみ子著『老後とピアノ』240〜241頁

スポティファイで彼の名前を検索し、 表示された ノクターン を聴いたとき
言葉を通して胸に響いた一音の振動と 実際メロディーとして耳へと届く演奏が
メールでしかやりとりをしたことなかったひとと、 会ってお茶をするときのように 胸にあったものと現実が ひとつになる。

菅野さんは、 イスラエルのガザへの侵攻が始まってから 家ではえんえん 『マタイ受難曲』 それのみを聴いているという。 その心境を勝手にわかることはできないけれど そうしてわたしは、 どれだけイスラエルの傍若無人な残虐行為に、 自分のどこかが大きな穴があき、 言葉を失うばかりでも それでも音楽は、 そのときどき聴きたいものを聴いていたのが バレンボイム氏の演奏を聴いてから まるで部屋にいるときは 彼の音楽ばかりを流し続けるようになる。

そうしていたら、 なんとなくも、 自分の胸の切羽詰まりを自覚するみたい
その、 救済のようなものを 彼の演奏に感じているのかもしれないと
マタイ受難曲をとうとう東京駅前の集合場所で流し始めたという菅野さんの話を聞いて ああわたしもと、 その意味を自分に思った

稲垣さんが彼のコンサートに行かれたのは、 コロナ禍の真っ只中で
いま、 氏はご無事かが気になって スポティファイで検索して以来
今度はつぶやきで、 バレンボイムさんの名前を調べる。
そうして出てきた投稿に、 10月頃に出された、 彼の声明があった。

過去には、 まさに豪気な よっぽどの覚悟に思う 決断と表明の演奏も


ひとを救うのは ひとを生かすのは ひとを殺す兵器ではない
ひとをひとたらしめるのは 銃じゃない ミサイルじゃない

そうじゃないで 話し合いを わかりあうことを 同じ、 人と人であることを
その意識の橋を渡そうと 立場や命を顧みず 己を超え尽力しているひとがいる

有名無名関係なく いまみんなが たくさんのひとが それを望み 動いてる

目の前のひとを 遠くの国にいるひとを 知らないひとを そのひとは
自分と同じ 自分と同じ 命を持つ いまを生きている いろいろを感じ 
いろいろを思い いろいろを愛し いろいろを大切にし いまを生きている

目の前のひとを 自分に思う

殺めようとしているこどもを 邪悪で邪魔な因子として見るのではなく
自分のお子に思うとき  止まる

自分から 止める。 みんなで 止める。

ひとはこのときを生きるために ここにいる。

即時停戦を。


演奏 ダニエル・バレンボイム リスト コンソレーション 第3番


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