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しあわせ

お金があるからといって幸せとは限らない
そんな言葉を、 よく見たり聞いたりするけど 生きていて真に思うのは
幸せの多寡というのは、 お金のあるなしと違うところにあるということ

今日お会いしたひとは、 世にいう資産家も、 そのひと自身はだいぶに質素倹約で
それでも暮らしは華やかさ、 はしばしに伝わるけれど セッションのあとはいつも、 しめの挨拶のように、 お互いに、 維新の悪夢についてひとことふたことを語り合う

そのとき必ずなくらい、 税金を大阪に納めたくなくて、 どこか府外へ移住を考えていることを、 風船が抜ける音みたいに口にされる (前は海外を思われていた) その瞬間のそのひとの、 いっきにげそっとやつれた表情へと変わる、 灰色がかった顔色の変化を見るたびに、 しあわせは、 どこを見ているかなんだとしみじみ思う。

そのひとの顔が灰色になるのは、 自分の資産をどう守りどう残すかを思うとき、
カジノや万博、 なぞにそのお金使われることのわなわなが、だいぶにあるのだとして
だけどきっといちばんは、 今後のことより、 いま現在に行われている、 維新主導の、 大阪の街や環境、 建築、 芸術文化の破壊を前に、 大阪の本来性が、 その原型を留めないほど、 グローバリゼーションという空虚さで塗り固められていくことが、 もうどうにも限界に、 耐えられないのだと思う。 それというのは、 そのひとは、 誰よりも大阪を、 深く愛してもいるからで その大阪のよきものを守りたい思いから、
文化財の保全の活動もされているけど、 彼の思いに真に賛同するひと周囲にほとんどおられないこともあるのか そうして無遠慮に、 アグレッシブに壊されていく
大阪の、 いまと未来を見たときに そのひとは、 いまへのしあわせどうにも感じられなくなって、 やつれては、 彼にとっての幸せは、 それはお金の有無関係なしに、 維新という存在に、 脅かされつづけている。

そのひとのしあわせは 本来みんながあたりまえに受け取れていたもの
それはあたりまえの美しさや豊かさ感じる景色や文化やひととのやりとり
それは何があるからとか立場がどうとか関係のない みんなが共有しあえるよろこびであり、 安心のようなもの それをいまというときはあたりまえに持つことが 得ることが わかちあうことが どれだけお金を持っていたとしても お金がなくても関係なく みんながそれを日々に自分に周囲に感じるということが、 どこをみても困難に、 感じているということで

その本来の幸せは たぶんきっと、 政治が少しでもまともに機能しているなら
まんべんなくにそれをみんなが持つこと、 感じることができるもので、 きっとあると思うのに 政治や企業は、 しあわせの価値をどこにおいているかと言えば、
経済でありお金であり、 そのための搾取システムの維持だから、 日本の幸せ度指数が低いのは ひとりひとりの問題では決してない。

だからといって もう、 選挙に期待する時期は過ぎてしまった
デモでももうきっとない SNSにも限界がある

彼らの幸せの価値観を強制され、 人生、命を搾り取られる、 怒濤の滝行みたいな中にいながら しんとした静寂の鎮まりを内にみて 意識が滝の外へと広がりながら この世界の美しさ よろこびを知ることを 通勤の電車や車で得られるなら そうしてひとりひとりが 健やかな顔色をとりもどし おはようと出社するなら 同じに滝にうたれ、 呼吸もままならないでいるひとに そのおはようは、 きっと
その声、 鼓膜とちがうところに響く 滝のしぶきごしでなく、 その姿、 隣で顔をあわせるように そのひとを見る

できることは まだまだぜんぜんにある

できることは それはどんな状況にいても 環境下でも 経済や健康、 落ちつかづに段々と波打っていても そのときも、 どのときも、 できること 自分にある

しあわせをどこに見るか その実現を 外に見ずに 自分が見る 自分が生きる

わたしはしあわせは 生きていることが嬉しい そう思えるとき
何があってもなくても そのとき腰を痛めていても(いま) コロナ禍収入が半分になっても しあわせしかなかったのは いまも怒涛の呪いのアタックにいても
いまにいちばんのしあわせを思うのは 生きていることが嬉しい
それがなにより一番の真実としてあるからで

わたしならそんなふう 自分にとってのしあわせを内にわかり
そのしあわせから いまをある。

それが、 全体個々のしあわせを、 抑制し、 支配し、 コントロールしようとする
国であり、 彼らへの いまできうる最大のカウンターに わたしは思う。


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