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魂のバガボンド 2

「実は、俺も昔は絵描きだったのさ」男はイェルンの傍らに腰を下ろし、のんびりと身の上話を始める。「昔といったって、つい三年前までのことだがね。二十三年、そう、二十三年間、俺はフィレンツェのボッテガで仕事してきたんだ…」
「ボッテガ? どの?」
「ボッテガってのは、美術工房のことさ」男はそう答えてから、自分が質問の意味を取り違えていることに気づいた。「ああ、おまえさんはそれぐらいのことは知っていそうだね。これは失礼。…俺はいろんなボッテガを転々としたが、最終的にはヴェロッキョのボッテガに入ることができた。聞いたことは…あるかい?」
「ええ、よく聞きますよ」

「そこに、四年前、レオナルドという男が入ってきたんだ。そうさな、ちょうどあんたと同じぐらいの年恰好かな、とにかく、おっそろしく絵が巧いのさ。お師匠さんのベロッキョ殿も、たちまち夢中になっちまったほどでね。俺も最初のうちは、ずっと後輩ながら奴さんには敬愛の念をもって接していた…」
男はそのまましばらく黙りこんでしまった。
イェルンはその横顔を見る。そこには、なぜか深い失望の色が刻まれているようだった。

「それ、貸してもらっていいかい?」男はイェルンのスケッチブックを指さす。「久しぶりにちょっくら描いてみたくなった。な、一枚だけでいいから…」
「どうぞ」イェルンはスケッチブックを、ついでペンとインク壺を手渡す。「何枚でもお好きなだけどうぞ」
「ありがとよ」男は笑みを浮かべてうなずき、スケッチブックに向かう。
見事なペン捌きだった。さすがは、フィレンツェ最高の名の高い絵画工房の絵描きだった。だが、それ以上に、彼のペン先が刻みだしてくる画像は、めったなことでは驚かないイェルンを瞠目させるに十分なものだった。
それは、いわゆるキマイラの画だった。ただ、ギリシャ神話風のパターン化した図像ではなく、頭はトカゲ、腕や足はカマキリ、胴体は毛虫といった独自のキマイラだった。

「ほら、いいだろ?」男はペンを置き、スケッチブックを目の前にかざして、今描き上げたばかりのキマイラをしげしげと眺める。「俺の作品じゃないけどよ」
「じゃあ、レオナルドという画家の?」
「その通り」男はきゅっと唇を結んで大きくうなずく。「あいつがまだトスカーナのど田舎のヴィンチ村ってとこにいたころの話なんだが、なんでも、公証人をやってる親父さんに、盾に絵を描いてくれと頼まれたらしい。そこで、盾に打ちかかってくる敵が恐れおののくような絵をというわけで、こんな化け物をでっち上げたそうだ」

「なるほど」
「これよりゃ、もっとリアルで巧かったけどね。だから、出来上がった絵を暗がりにおいておいたら、知らずに部屋に入ってきた親父さん、腰を抜かさんばかりに驚いたってさ。わっはっは」彼はまるで自分のことのように陽気に笑う。「なにしろ、奴は一人で野山を駆けずり回って昆虫や小動物や植物や景色を観察してスケッチして育ったような奴だからな」
「おもしろそうな人ですね」

「そうなんだよ。ほんとにおもしろい奴だったんだよ…」男はしみじみと言う。「あいつが徒弟としてボッテガに入ってきたころは、俺たちゃ、そりゃあ仲がよかったんだ。仕事を離れて、二人でよくこういうふざけた絵を描いて遊んだものさ。俺も年を忘れてけらけら笑いながら大いに楽しめただよ。…そうだ、もうひとつ描かせてくれ」

映像プロモーションの原作として連載中。映画・アニメの他、漫画化ご希望の方はご連絡ください。参考画像ファイル集あり。なお、本小説は、大航海時代の歴史資料(日・英・西・伊・蘭・葡・仏など各国語)に基づきつつ、独自の資料解釈や新仮説も採用しています。