見出し画像

宮永愛子インタビュー[前編] 三日後につながる隠し扉とは?

想いは、どうすればリアルに感じることができるのだろう? 時間を超えることができるものってなんだ? 諸々の問いをインスタレーションという方法論で可視化した作品が宮永愛子さんの《ひかりのことづけ》ではないだろうか。

アートライティングスクール1期生の4人が鑑賞後に感想を述べあい、そこから生まれた様々な疑問を投げかけさせていただいた、ロングインタビュー前編。 後編はこちらをご覧ください。

取材・文・撮影:西見涼香、大豆生田智、荒生真美、佐藤久美

編集:佐藤久美


──展示の概要を聞かせてください。

まず、自分で書いたテキストを大事にしています。

ひかりのことづけ最終版_page-0001

テキスト表面


ひかりのことづけ最終版_page-0002

テキスト裏面


インスタレーションでは場所を読むことが大事で、ただ物を置くことじゃなくて、どんな背景の、どんな歴史の中に自分の作品を置くかが重要です。湯島聖堂を会場として提案されたときには、学問や図書館の始まりの場所であったということを勉強していくところからスタートしました。

じゃあそこに、どんな素材の何を置いたらいいか、をかなり悩みました。この展覧会の前に、高松市美術館で13tのサヌカイトを使ったインスタレーションを発表しました。

それは特別な石で、5000 万年くらい前の溶岩が急冷し隆起した塊です。カンカン石と呼ばれすごく澄んだ音がするため、現代音楽に使われるのですが、私は、その音を鳴らして見せたいわけでも、そのものを見せたいわけでもありませんでした。それ自身のいわれや珍しさも特別ですが、13tを家族4代かけて集めた人たちに注目したのです。

大変な思いをしながら、時間とお金をかけて、何かにとらわれたかのように山からおろした彼らの物語に特別な意味を感じてお借りして展示しました。長い時間というつながりがあるので、それらを湯島聖堂に持ってこようと思ったのですが、何回見ても湯島聖堂の場所の力は強く、良い取り合わせにならないと感じてしまったんです。

やめることも、展示プランを変えることも勇気がいるのですが、ぎりぎりまで検討するなかでガラスの作品を置けば、きっと場所が活きるのではと思い至りました。

とはいえ、私の作品そのものを見せたいわけではなく、その場に差している光や、場が持っている空気感を重視したい。気配や景色や音にまで気が向く空間のありようを見せたい。 景色を一変させるような大変なことをやるのではないのだから、中庭に置くのはガラス作品だけにとどめ、サヌカイトはガラスから離れた別の場所に置くことにしました。

サヌカイトは、耳を澄ますにはちょうどいい音がするのだけれど、湯島聖堂では意図的に音を鳴らすと、願掛けやお参りのような意思を持った音になってしまうんです。そうではなく、風が不意に何かの音を鳴らしたというような自然なかたちにしたいと思いました。

湯島聖堂に何度も通っているうちに、東側の雨樋だけから、晴れているのに天水桶に水が落ちていることに気がつきました。見上げるとそこだけ落ち葉で詰まり、その中に雨水がたくわえられて、時差がうまれて晴れた日でも水が落ちてくる。この水がサヌカイトを鳴らしてくれるんだったらちょうどいいな、と思ったんです。

それが落ちてくるかもしれない時間に注目して、そこにある空気に耳を澄ます。すると、 電車が通る音、車の走る音、都会の音が聴こえてくる。でも自分が立っているこの場所はまるで森の中のよう。そういう東京の不思議な風景の中に自分がいま立っていることを体感できる。ただ、思うように鳴らないかもしれないので、落ちてくる水の強さや速さ、風に吹かれて水が当たらない可能性、あるいは逆に鳴りすぎてうるさくなってしまう恐れも鑑みて何度も実験しました。なるべく自然に鳴るように気をつけてつくりましたね。

画像3


サヌカイトとの出会い

──2020 年の高松の展示では、サヌカイトを蒐集した家族と相当な関係性ができていない と、大切なものを貸してもらえないのではないかと思いましたが。

以前からサヌカイトを使った音楽の催しが度々あったので、学芸員さんが所持者との関係性を持っていて、それらを借りることがあったそうです。私が高松で展示をするにあたり、そういったエピソードをうかがい、もっとその石のことを知りたいし、お会いしてみたいと思いました。

所持者のお宅にお伺いしたら、本当にお庭にいっぱい置いてあって、音ももちろん綺麗なんだけど、そこまで石を愛する精神に惹かれました。お話したいとお願いしたら、「もう何度もいろいろな機会で貸してきたから、別に興味ないし会いたくない」って断られたんです。

でも私たちがウロウロしてたら、ちらほら覗きにきて、話を聞いてくださって。一回限りのチャンスだったので、そこでどこまで思いを伝えられるかにかかっていたのですが、私は「楽器として借りたいのではないんです。家族 4代にわたる時間が素晴らしいと思うのです。どうしてそんなに切実なのか」、「車で行けるわけではないような山の上から、家族で何 100 キロの石を降ろしてくる、というシーンが想像できませんでした」と伝えると、「ただ自分はそれを守る家に生まれたから」と仰った。石を大切に扱う物語が魅力的でもっと知りたいと思いました。

展示にあたって、少し借りるだけの予定でしたが「全部借りたい。ちょっとは嫌だ」と正直に伝えたら、「あなたになら全部でもいいよ」、「楽器としてではなく、自分たちの生きてきた時間として扱われることをうれしく思うし、それであれば預けてみたい」と応えていただいたんです。

でも屋外に保管してあったから、美術館やその周りの人たちと全部一個ずつきれいに洗って、薫蒸をかけて13tをようやく室内に入れました。

おじいさんは体調が悪く、入退院を繰り返しながらも私の高松での制作につき合ってくださり、偶然にも図書館の司書をされていた方だったので、今回の湯島聖堂での企画も相談しました。図書館の始まりの場所だし、私の中では繋がってていいなって思ってるって言ったら、共感してくださって、快く承諾してくださった。でも、おじいさんはガンで昨年の 7月20日に亡くなられました。コロナの延期で東京の展示を見てもらうことはかないませんでしたが、ご丈母様は「水でサヌカイトを鳴らす人ははじめてよ」とおっしゃっていました。

画像4

画像5

湯島聖堂 右天水桶とサヌカイト


作品は、見慣れていない人にとっては「キレイだね」「なんだろう」で終わる場合もあると思うんですけど、少しずつ見方がわかってくると、最初は作家がいくつも投げている扉には気がつかないんだけど、何回か見ているうちに、ここに本当は隠し扉があるのかなという発見がある。それが面白いところなのかなと思います。最初からいろんなことに気づいていただきたいとは思ってないけど、何度も作品を見ているうちに、やっぱり現代美術はおもし ろいなとか、インスタレーションって興味あるなと思ってもらえたらうれしいですね。


ひかりとガラス

──前庭に配置されたガラスを通過した光に気づくことで、鑑賞者は色々なイメージをしますが、光についてどのように考えていますか?

ガラスというのは光を集めるのが得意な素材です。晴れの日は銀色みたいに映るし、雨の日は濡れた石の上に反射して、電気を入れたみたいに光で明るくなります。かといって外に置いても、紫外線などの影響を受けない。光とすごく相性がいいので、野外でのインスタレーションではガラスを使うことにしました。

画像6

画像7

湯島聖堂 前庭


ちょうど最近、光というか、太陽について考えていました。コロナ禍において、京都でオンラインお茶会をやってほしいと依頼され、1回きりのイベントを引き受けたんです。京都のどこかの場所を借りてお茶会をするのですが、私は清水寺の裏に広がる東山にある「花山天文台」を会場に選びました。太陽の黒点を観測しているその天文台は最新の技術に頼らず、みんなが手書きで観測データを記録していて、その感じが好きだったんです。太陽のことに触れる時間ができていろいろ考えていると、私たちが何かを知りたいと思って本で調べたり、読んだりするときに光がないと読めないし、太陽が光を私たちに送ってるというのは本当に大きい。目の前にあるいろいろなものが見えるのは光のおかげだと改めて気づいたんです。

だから湯島聖堂において意志を持って知を育んでいた過程には、いつでも太陽の光があったということを考えるのがいいなと思った。嫌らしくなく、自然なかたちにしたかったので、 光とガラスはちょうどいい。そんなことを考えていたから、「ひかりのことづけ」というタイトルはすごく素直に出てきたし、湯島聖堂の前庭は光が燦々と差して陽の部分ですけど、その周りは黒い色使いが多いので、光の中で陰と陽がすごくはっきりしてる。それはちょうどいいなと思いました。


天水桶の中のガラス

──ひとつの天水桶にいくつかのガラスが沈んでいましたが、なかなか気づきにくい。このように沈めたのはなぜでしょうか?

気がついた人がいればいいなっていうぐらいで設定しました。雨どいから水が落ちている音が聞こえる。それでサヌカイトの音が鳴ってることに気がついたら、あれ反対ってどうなってるのかなと思って、反対側へ見に行くかもしれない。天水桶の中に何か溜まっていたら、その人はどうするかなと思いました。

画像8

湯島聖堂 左天水桶


晴れていると、左側の天水桶にかなり日が射して、水の中に光が差し込む。そうすると結構水の下の方まで見える時間帯があるんです。夕方には見えない。それでガラスを沈めておきました。光がある時間帯にしか見えません。
例えば強い雨が降ると、その中の水が濁ったり、苔が浮遊したり、よく見えなくなっちゃう。でも本当に晴れた静かな時間は、下の節までがくっきり見える。その時どうしようかなと思い、あるものをどうやって使うか、どういうふうに気づいてもらうか。自分としてはそういう動きをしているんだと思います。


気泡の入ったガラスたち

──今回展示で使われたガラスは、どのようなものなのでしょうか? 以前留め石で使われたものと関係があるのでしょうか?

福島の「Don’t Follow the Wind」(※)に誘われたときに、これはどのように参加するかよく考えなきゃいけないと思ったんです。本当に行くことがいいのか、どうしてこれに携わるのか。最終的には現地に行かないことを選び、自分の呼気を含んだガラス作品で《留め石》 という作品を制作して展示しました。それが最初の《留め石》の発表でした。当時私は妊娠していて、つまりガラスには2人分の空気が入っている。そこが大事なところで、娘が産ま れて、身体が別々になってからも2人分の空気を入れることにしています。
最初の 2015 年のときはお腹に子どもがいる状況や帰宅困難区域の中と外で分けるボーダーについて考えていました。留め石は置くだけで内と外、こちらとあちらを表すものです。でも私が気になるのは、どちら側に立つかということじゃなくて、どちら側かに立たなければならないってどういうことなのか、そのボーダー上に自分が立ったときに自分がどう考えるのかということでした。そして留め石の中に自分の空気を入れて、そのときに自分がどのように考えるのか、どのように生きたいのか、どのような考えで自分がいるのかということを自分に問うために制作したんです。

この帰宅困難区域の中にある作品は封鎖が解除されるまでは誰も見られないという展示なんです。ただこれに関連した展覧会では、私は《留め石》を改めて何個か作って、あっちに行ってもこれがありますよ、私が作ったものはこれですってあえて発表することにした んです。なぜなら私はそれがアートだと思うから。その石をどこに置くかによって、その作品の見え方が変わるところに一番興味があり、そこが大事だから。あっち行かなきゃ見られないとか、こっちでしか見られないとかは嫌だなと思ったんです。あちらに行って見たときは、きっと本当に違う思いがするだろうし、こちらで見るときはまた違う思いがするだろうし、それを伝えられるのがアートなんだと思うんです。

画像9

その後、このガラスの仕事はとても気に入って、今でも時々娘とやっているんです。だから、今回は《留め石》の時とはまったく意味が違います。今回は空気を入れてるっていう気持ちでやってるので、今年の空気がそこに入ってるというだけです。でもなんでもない今年の、本当に空気ですよね。それは今年作ったからというぐらいな感じです。

※「Don’t Follow the Wind」展                        東京電力福島第一原子力発電所の帰還困難区域内に国内外 12 組のアーティストが同区域内にある民家を借りるかたちで展覧会を行っている。同展は帰還困難区域の封鎖が解除された時に初めて見ることができる。2015 年にスタートし、2021 年現在まだ見ることはできない。2015 年 9 月には東京のワタリウム美術館の「Don’t Follow the Wind Non-Visitor Center」展にて、帰還困難区域内に設置された作品に関連した各作家 の展示を開催したほか、「DFW」にまつわる資料展示、そしてドキュメントとして映画監督・園子温による映像イ ンスタレーションなど、さまざまな角度から鑑賞者の想像力を喚起する展覧会を開催した。

後編に続く


#宮永愛子 #東京ビエンナーレ #アートライティングスクール #美術 #アート