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断固、デイサービスには行かない!

まだお正月の2日である。私が次女のお店の手伝いから戻ると、すでに不穏な空気。長女が言っている。「おばあちゃん、昨日あんなに楽しかったことをもう忘れたの?」

忘れたのだろう。昨日は昨日、今日は今日なのだ。つまりは、デイケアもデイサービスも行かないという話だ。5日、デイケア、11日、デイサービスが始まる。どっちがどっちなのかも、今日が何日なのかも分かっていないのだけれども、気持ちは行かないモードに入ってしまっている。行きたくないものを無理に行かせようとは思っていない。ただ、歩くリハビリ、好きなお習字をしながら、もっと気持ちを外に向けて欲しいと思っているだけなのだ。すべてお任せのお姫様でいたら、本人の心も身体もダメになってしまう。それが怖いのだ。歩けなくなりさらに頭も回らなくなり、トイレも食事もできなくなって施設へ入る、それが残念だと言っているのだ。

母の日常には時間というものが無い。決まりというものがない。起きたいときに起きて、食べて、寝る。昼も夜もないから夜中に起きてテレビを見る。水分を取ってもらいたいからテーブルにお茶、小腹が空くというのでおやつもセットされている。それを支えている家族のことは眼中にない。食事の世話だけでしょ、と簡単に言う。お風呂も身体を洗って、拭いて、クリームを塗って、着せて貰って。暑い、寒いと言えば、着せて脱がせて貰う。物忘れ、台所仕事ができない、歩行が危ないで要介護2。未だに、それがアルツハイマー故(ゆえ)なのか、我がままなお姫様気質からなのか謎だ。その両方が重なっているのだろうけれど.....。

デイケア初日、母が4時間不在な間、私はパソコンに向かった。時間がそれしかないと思うから充実していた。これなら行けるかもしれない、今は週1回だけれど、気に入ってくれて2回、3回と行ってくれたら仕事を再開できるかな? .......そんなことを思っていた。デイサービスは歩く訓練だけだから午前中だけ、お昼も無しで直ぐに帰ってくる。その日は珈琲を飲んでぼーっとしよう。それだけだって至福の時だ。それすら許されないのか............娘が言う。もうお母さんが出て行くしかないね!

母の言い分。①年寄りばっかりの所に行ったって面白くない。②ただ眠っているだけの人がいる。何が面白いのかしら?  ③もの凄い勢いで食事を完食する人がいる。④お習字は先生が来る訳でなし、ただ書くだけ。あんな所に行きたくない!!!   まあ、①はごもっともかも。 母のプライドが許さないというところ、私をその他大勢の年寄りにカウントするな!ということか。

歩けるようになったら行かなくていいんだよ。歩けなくなったら寝たきりになってしまうんだよ。とそこへは繋がらない。家族で楽しく暮らそうよ。だからそのためにもう少しだけ歩けるようになろうよ。と、何度繰り返したことだろう。家族なんだから皆でちょっとずつ譲歩しあって、つまりひとり我がままはダメだよ、が通じない。

デイサービス初日も、ただ行っただけで何もしなかったと言い張るので確認したら、結構な運動をしていたし、行き帰りの車でおしゃべりもしていた。どうしてそんな嘘をつくのだろう? 私も一緒に行って体験したけれど、私が受けたいくらい充実したサービスだったのに..... 。

「あのね、家にじっとしていられたら困るという家族もいるんだよ。好きな時に寝て起きて、食事が出てきて、おやつが用意されている。それができないから来ている人だっているんだよ」。実際に週3回デイサービス、週3回デイケアという人がたくさんいるんです! そして家族が一概に薄情だとは言えない事情もそれぞれあるんです! と言ってみたけれど、そこはアルツハイマーで「そうなの?」と、ポカンとしている。

「あんたたちが勝手に決めて...」と、そういう物言いをするのが永遠のお姫様、母である。せめて「私ね、大勢人がいるところが苦手なの」とか、言葉に可愛げがあれば私たちの心も救われるのに。これはアルツハイマーだからじゃないよね、やっぱり性格が悪いんだよね....。12月ギリギリまでのあの世話しなさ、あれは何だったのだろうか。あぁ、トホホの徒労感たるや。

そんな訳で新年早々、もう躓いている。デイケアはお休みした。来週のデイサービスはどうしよう?  ケアマネージャーに相談して訪問介護、つまり一緒に散歩してくれる人を頼むのか。 ...........今、私は何も考えたくない。だからペンディングにしておく。たとえ数日でもまず断固として、自分がハッピーになれることをする!感じる心を取り戻すために好きなことをする!

『たとえアルツハイマーになろうとも、自分の老後は自分で設計する。自分の意思で人生を生きないから、人任せにするから、そこに不平不満が生まれるのだ。病で倒れたら余命宣告をしっかり受け止めて、おおらかに生きて死んでみせる。今、この毎日の積み重ねが老いの日々に繋がっている。それはさあ、今日から老後ですよ、と始まるのではないのだ。今の生き様が私の最終章を作るのだ』 これが2022年、私の決意、私の宣言である。

おやすみなさい!



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