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8月に思うこと...........

母方の祖母は、大正から昭和初期まで旅館を営み評判の若女将だった聞いています。私が大好きな千葉のおばあちゃんとして出逢うのはその最晩年で、旅館はすでに無くただ美しい田園が広がる中に小さな家がありました。家の前を煙をはいて走るSLによく手を振ったものです。60年代初め、絵に描いたような田舎の風景と暮らしが東京から2時間くらいの場所にまだ広がっていたのです。だから幼い頃の思い出は夏休み、千葉の田舎に凝縮されています。

祖母は旅館を営む叔母夫婦の養女となり、叔父方の縁者である祖父が婿に選ばれ、この親族が取り決めた縁で出来上がった夫婦は、16歳と20歳だったそうです。祖父にはその前に、兜町の証券会社で働く時代があり、若造であっても人力車に乗って出歩く商売だったそうで、それが車力の人に心苦しくて辞めたという話を聞いています。後に戦中の満州に行った時には、気の毒な中国人を見るに耐えられず、あんな所は行く所じゃないとすぐに帰ってきたとも。心優しい自由人といったところか、、、。でもそれは、一方から見れば生活力に欠けるということにもなり祖父は生涯、家族を養ったことのない人として、今現在に至るまで語り継がれています。

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対照的に、勝ち気で賢かった祖母は若女将として成長。髪結いさんが週に2回通ってきたと云います。しかし、この旅館は祖父とその取り巻きたちの事業の失敗により潰れてしまいました。車(シボレー)に書かれている「木村屋旅館自動車部」にその痕跡を残しています。車を数台揃え、東京・三田の自動車学校で免許をとったまでは良かったのですが(幼い時、この修了証を見た記憶があります)仕事は成就せずに借金を抱えて破綻。この後、一家は東京に移ります。

祖父は東京・東日本橋の生まれ育ちで、この時すでに未亡人で三男(祖父の弟・三郎おじさん)と暮らしていた実家の母、おミツおばあさんの元で母の姉は女学校を終えて大蔵省のタイピストになります。長兄は都庁職員(1868年から1943年までは、東京「府」)となり、家族の暮らしを支えていましたが出征。戦中は残った家族全員、雑司ヶ谷(豊島区)の長女夫婦の家で一緒に暮らします。しかしそこで城北大空襲にあい、雑司ヶ谷墓地や学習院の森の中を逃げ惑いすべてを失います。 そして命からがら、東京からまた千葉に戻るのです。祖父は3月10日の東京大空襲にもあい、日本橋の実家にいた妹夫婦を失っています。

母が語る戦中......... 東日本橋の祖母の家、女学校帰りに寄り道した富岡八幡、門前仲町の映画館(現存しています)、銀座のあんみつ、日比谷公会堂の三浦環、両国国技館の相撲、浅草寺の初詣、朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)の警護官だった三郎おじさん、芝白金三光町のおばさん、テニアン沖で戦死したおじさん、...........それらの場所を繋いでいたのは当時、街中に張り巡らされていた市電で、昔の地図を見ると日本橋界隈も雑司ヶ谷も白金も簡単に繋がります。戦前、戦中の東京の暮らしを、母や今は亡き叔父叔母たちが、楽しそうにイキイキと語る姿を覚えています。母たちが根こそぎ奪われた暮らしは、父親が引き起こした事業の破綻よりも戦争によることの方が大きいのです。

千葉へ戻った後も母は東京に戻ることを願い続け、結婚数年後にそれが叶った時は、どれほど嬉しかっことでしょう。だから、私の暮らしの根がある街は東京なのです。2011年7月27日、福岡に来るまで。

2枚の写真が母の記憶を次々と呼び覚まし、コロナ自粛で静かな日々に刺激を与えてくれました。まだまだある古ぼけた写真から、そこにあった物語を紡ぎ出してみようと思います。



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