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葉山で子育て.....2001年東京へ ④

2001年の夏、やや唐突に葉山暮らしが終った。娘の高校受験を控えてその行き先を考えた時、はたと思ったのである。ここは選択肢が少なすぎる。横浜まで出るのか横須賀方面へ向かうのか..... 否、東京だろう、と思ったのである.....。友人が買ったばかりのマンションを貸してくれるということもあって、私たち親子3人は東京・港区白金に引越した。

私は東京で育ちそこから留学をして東京に戻り働いた。そこには選択肢がたくさんあったから、仕事、恋愛、遊び、勉強と思うままに好きな事をして生意気な時間をたくさん過ごした。よく自由には責任が伴うと言うけれど、私の自由に責任なんてまったくなかった。ただ好き勝手に思うままに生きただけ。今、その時代の自分を振り返ると頭がクラクラして目眩がするほどだ。

だけど、責任というのは後からどっさりとやってきて、葉山で子育てを始めて15年の間に、私は予期せぬ事情と感情の渦の中で、人生始まって以来の辛酸を味わったような気がする。父の発症とそれに続く介護、初めて経験する経済的な重荷。解決しなければならないことが山ほどあって、そこで初めて私は社会と対峙、つまり本当の現実にぶつかったのである。そこにもう保護者の父はいない。奥様でしかない母とお坊ちゃまの弟には何も相談できなかった。しかしこれすべて、思うままに生きたあの時間があったからこそで、私には生き抜くための知恵とエネルギーがあった。それにしても、銀行対決なんぞ二度とごめんだ。不動産.....不動のものなんて重荷になるだけ、それがあの時に得た実感と教訓である。

父が亡くなり、家を処分して海辺の家に移った時に葉山教会との出逢いがあった。中村牧師から学んだ聖書の教えは、幼稚園とハワイの高校で親しんだキリスト教の内側を深く照らし示してくれた。そしてそれは、それまで親しんできた音楽、文学、美術のすべてに渡ってその理解を深めてもくれた。その日曜礼拝に毎週日曜日、品川から京浜急行に乗って通うことになり、娘たちは高校生になると日曜学校の先生をするようになっていく。

8月に始まった白金生活であったが、9月の学校訪問で娘の高校はあっけなく決まった。是非にと言われたといったらおかしいのだけれど、12月の推薦入学の枠で受験してくださいと言われた、今はなきお茶の水の文化学院である。大正の頃に与謝野晶子など文化人が集まって作った学校で、母がその昔、私を行かせたかった学校でもあった。与謝野晶子の「芸術による個の自立」という言葉通りの校風で佇まいの美しい学校だった。そんな訳で、12月には入学が決まり、引越の最大の目的であったこの件、一件落着。

このあたりからもう、子育ては終りにさしかかったような感があり、私たちは親子3人から、女3人暮らしになっていった。途中で世田谷区へ引越しまた、白金と通りを隔てた高輪に戻った頃から、それぞれの父親との交流も頻繁になり、長女の父親の事務所は徒歩圏内。近所の都ホテルでよく食事をした。次女の父親はパリから個展の度に連絡してきた。葉山は幼い子供を育てるには最高だったけれど、大人になっていく過程での東京暮らしは、私自身に重ね合わせて嬉しかったし何より楽しかった。白金、高輪、麻布、六本木.....変わりゆく東京の街並みに添いながら、どこからでもフイに姿を出す東京タワーに親しんだ。自宅近くのギャラリーがおしゃべりの場となり、娘の仕事場ともなった。

シングルマザーに育てられた娘たちには、私のような無鉄砲さはまったくなく後にそれぞれロシアと韓国へ留学した。そのさなかにあの3月11日がやってきて、私たちの東京暮らしは唐突に終った。サヨナラ葉山、サヨナラ東京。2011年の夏、私はひとり東京から福岡へ引越した。


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