File.16 「綺麗ごと」を守り抜くプロフェッショナル 小泉ポロンさん(マジシャン)
小泉ポロンさんほど、肩書きやキャッチコピーが多彩なひとは見たことがない。 女性マジシャン、サイキッカー、サイコメトラー、メンタリスト、魔女軍団、お笑いライブ、 Rー1グランプリ……。なぜこんなに目が眩むほど多様なのかを覗き見たい!という欲求とともに、インタビューは始まった。
取材・文=田中未知子(瀬戸内サーカスファクトリー代表)
——マジシャンとして有名なポロンさんですが、最初は俳優を目指しておられたとか?
はい。中学生の頃から、歌うことやアニメに興味を持っていました。家はわりと保守的 で、母は専業主婦でしたし、子どもには普通に高校に行って大学受験して...という道を求められました。 すでに声優になりたいという夢を持っていましたが、一方で、普通の学校に行ってお勤めするのが現実的なのかな、とも思っていました。 そんな高校時代、父から国際教育交流の制度を利用して留学をしてはどうかと勧められ、休学して1年アメリカに行くことになりました。普通の勉強のための留学でしたが、 滞在中に、やはり声優になりたい!少なくとも挑戦はする!と思いを堅めた状態で帰国したのです。
——その後、ご両親のご意向に沿って進学されたのですか。
いいえ、結局、大学には行かずに、声優の学校に入りました。
——夢の声優の学校ですね!
はい、でも入ってすぐに自分の認識が間違っていたことに気づきました。 声優は声を使う専門職かと思ってたら、まず役者、タレントであれ、と言われました。 そこで行われていたのは、俳優になる勉強であり、舞台での演技だったのです。
——確かに、声優はスクールの時からすごく専門的なジャンルかと考えていました!
声優は自分が考えていたような専門職ではなく、プロの俳優やアイドルタレントみたいになることが求められたのです。つまり、舞台に出る人の中で、ことのほか声の演技がうま い人が声優になる、ということです。
「プロの俳優になりたいなら仕事を選んでる場合じゃない!」と思い、できることはなんでもしました。色々なオーディションに履歴書を送りました。とにかくチャンスが欲しかっ た……。そんな時、たまたまうちにあった新聞を開いてみたら「マジックミュージカル出演者募集」の文字が。広告を出したのは、今も自分が所属している芸能事務所です。ちなみ にその新聞広告を見て応募したのは私だけだったそうです(笑)。そもそも、新聞で出演者募集をすること自体、一般的ではないですよね。
声優の学校で、常に先生が「最初にきたチャンスを掴みなさい」と言っていました。その メッセージが背中を押してくれました。
——今の所属事務所との出逢いは運命的ですね。巡り合わせというか。
私はあまり身長が高くないので、出演募集条件に合わないことも多々あるのですが、大掛かりなマジックのアシスタントの場合、メインのマジシャンよりちょっと低いくらいが良く、自分にぴったりでした。 師匠から「帽子1つ渡すことにも、プロであれ」と教えられていたので、ミュージカルが終わった後、たとえアシスタントでも、舞台に出続けたいと思いました。
——「舞台のプロ」という意識ですね。
Arts United Fundで選ばれたほかの方はきっと「アーティスト」だと思うんです。私にはそれはない。芸人というのですか……。
芸術を追求するというより、「プロとして舞台にたちたい」だけなのです。 たとえば、自分は決して喋りは上手くないです。でも、私のマジックはなぜか喋りがある方が喜ばれる。だから喋ります。 自分には「天賦の才」はないと思っていますが、舞台に立ちたい。これしかないのです。
プロのコンテンポラリーダンサーの友人は、お金のために踊ることはしません。別のバイトをして稼いででも、お金のためのダンスはしない。彼女に「あんたは、舞台に立てれば何でもいいの?」と言われました。 自分は、舞台で仕事ができれば何でもいい、と感じました。
——今の所属事務所とのご縁は大きかったのですね。
そうですね、師匠と事務所との出会いが大きかったです。出会えていなければ進路を変えていたかも。
——寄席にも出ていらっしゃいますね。
事務所に所属しはじめた頃は景気が良かったし、大きなイリュージョン・ショーも、ソロの マジックもやらせてもらいました。また、浅草演芸ホールなど、師匠の北見伸が所属して いる寄席でも出番をもらいました。 寄席って、1年中、昼夜やっているんです。その中でも落語以外の芸を「色物」と言って、 大神楽、漫才、奇術、漫談などが、それに当たります。3本くらい落語があって、色物が15 分くらい、という割合で展開します。そこでも、北見伸の弟子、ということで認めていただけたのだと思います。
寄席って、戦時中もやっていたんです。憲兵がきても、芸を制限されながらも開いていた。コロナ禍で、「絶対に閉まらない」と言われてた帝国劇場、宝塚が閉まり、騒然とする中、夜の出番を待つ私のもとに師匠が寄席から電話をかけてきて、「2時に閉まるぞ。 夜の部はない」と告げられます。「今日が最後かもしれない」という思いに突き動かされ、(音響・照明設備が少ない)寄席では難しいと諦めていた演出に挑戦するようになりました。
——秋から、一部の舞台が再開されていきましたね。
第一波の後、東京都知事が早々に社会を元に戻そうとしました。 寄席も再開しました。初日、芸人が何百人もいる中、偶然にも昼の部の一番に出番が当たり、再開最初の「色物」として登場するという幸運を得まして、本当に嬉しかった。 もちろん、雰囲気は前と同じではありませんでした。演者もピリピリしているし、お客さん側の不安も感じる。だけどやっぱり、これほどに観たいと思ってくれる人たちがいたことに感無量でした。
——今後、いちばんやりたいことは、何ですか。
自分でショーを作って発表したいです。 ライブハウスは音響照明が良く、照明技師がいて設備があると、普段できないような演出ができるし、自分の主催だといろんなこと試せるから。 正直、もう少し早く実現できると思っていましたが、コロナ禍でライブハウスがマスコミの目の敵にされて、廃業するところも出てきました。もしも、お客様にチケットを売ってから会場が閉まってしまったら……などと考えて、ショーの実施に踏み出せずにいます。マジックのメンタリズムはお客様と作るもので、やはり無観客では本当のライブではありません。また、マジックの特徴として、ひとつ芸を見ると、次は別の芸を見たくなるんで す。普段舞台でやっている芸を動画にしてしまうと、感動は伝わらないけど、「見たことのある芸」になってしまう。ただ、それでも最近、自分のネタを映像で紹介したりするの は、「これは私の芸」とちゃんと示しておくためだったりします。
——ポロンさんとお話ししていると、とにかく「生命力すごいな」と感じます。
寄席の先輩がどれだけギラギラしてるか見ていますから、自分は、芸人としてはまだまだ 修行中だし、若手と感じます。 歳を取ると面倒くさいことをしなくなるけど、逆に言うと、ずーっと面倒くさいことをし続けてたら、ずーっと若いんじゃないかと。可愛ければ良いわけじゃない。けど汚くなっ ちゃいけない!(聞き手爆笑) マジック、奇術は「綺麗ごと」と言われています。つまり現実を感じさせちゃいけなく て、私はいつまでも綺麗なサイキックお姉さんでいなければいけないのです。
スコーン!と突き抜ける言葉の数々に、惚れ惚れ。「自分はアーティストではなく、芸人」と言いきるポロンさんの目線は、常に「お客様」の目線でもあり、本当はあらゆるパフォーミングアーツがそうでなければならないので
は?と思わされ、聞き手である自分の細胞まで入れ替わっていくような、痛快なインタビューでした。
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小泉ポロン(こいずみ・ぽろん)
2001年デビュー。(公社)落語芸術協会所属、寄席定席興行(新宿末広亭、池袋演芸場、浅草演芸ホール、上野広小路亭、国立演芸場)に色物・奇術として毎月出演。ホテルでの企業のパーティー、学校の鑑賞教室、ショッピングモールへの出演のほか、BS日テレ「笑点特大号」(2020年3月)、BS朝日「お笑い演芸館+」(2019年5、11月)など、メディア出演も重ねる。「マジックライブ 小泉ポロン勉強会」を主催。
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