断罪を断罪する断罪論

-罰が無いとやめられない話-

厚生労働省が児童虐待防止法の体罰の指針を改めてるっぽいですね!!!
ふんわりまとめると「子供の身体に苦痛を与えちゃダメだよー」ってなったっぽい!
よかった!!長いステップであるとは言え、良いことだと思います!!!!
(まあその法案の実態と定義の何某で、憲法改正案の悪名高い<家族は離れちゃダメなんよ>の部分と呼応する気持ちがあったりしたらちょっと怖いなーとは思うのですが、私の浅知恵で捏ね回せる分はその辺までです。)

先に表明しておくと、私の立場としては
体罰も恥辱も、
刑罰も断罪も、
すべてに反対です。

ちょっとエクストリームな自覚はあるんですけどね…。
でも罰は解決じゃないからなあ。

この話の結論: 『We are better than this』ということ。
※どうでもいいことだけれど、 別言語を知っておくとこういう微妙な、訳しづらい概念を含んだ表現を知れるのが好きです。
"Come on, we are way better than this."
"You are better than that!"
簡単に言えば「何をこんなところでくすぶってるの?」ってとこでしょうか
『そんな初歩で躓くほどアマチュアじゃないでしょ』
『こんなところで躓くような実力じゃないでしょ』
『もっと頭いいはずでしょう。そんなところで何してるの』


私は「人間が人間らしく生きるのに“罰”は大した役には立たないだろう」って一貫して思っていて、裁判もあんまり得意ではないし、警察はもっと得意ではないです。

てなわけで厚生労働省です。いろんなとこでニュースになってたし、ツイッターのトレンドにも上がってましたね。 


https://www.yomiuri.co.jp/national/20191203-OYT1T50063/

https://www.sankei.com/life/news/191203/lif1912030020-n1.html

指針案では「たとえ親がしつけのためだと思っても、子どもの身体に何らかの苦痛または不快感を引き起こす行為(罰)は、どんなに軽くても体罰」と規定。宿題をしないことなどを理由に(1)殴る(2)尻をたたく(3)長時間の正座をさせる―などを体罰に当たるとした。(引用:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191203-00000056-kyodonews-soci)
だそうです。

親がそういうアビューズ行為を子供にするのをやめれば、子供自身がきっといじめとかに気付けるようになるし、 不当な扱いを受けたときに「おかしいよ」って、少なくとも今よりは言いやすくなってくれるんじゃないかなあ。
「罰」に慣れると自分が矮小になっていく。
「罰」も暴力だ。
罰だからって甘んじて受け止めてしまわない人間が増えるのってきっといいことだと思います。


ここまで読んで「私はそうは思わないな!」って思ってる方結構いると思うんですよね
説明させてください。
※先ず一応:DVレベルの「罰」はもうそれは罰じゃなくてDVなので前提が先ず違っています。子供を保護して、親子別々に精神科を受診しよう。そういう方々はこの話には入ってないです。


◇「罰」を全体的に支持しない2つの理由 

●1.本当に「罰」の理念を鵜呑みにして育ってほしいですか?


私は躾としての「罰」全般を特に支持してないし、
「体罰」は無論がっつり反対です。


躾としての、恥かかせたりとか、寒いとこに立たせたりとか、ゲンコツしたり阻害したり、謹慎させたりとかもあんまり良いとは思っていない。
ここに関しては賛否両論、あるんだと思うんですけど。

それに私、子供育てたことねえから、あんまりデカいこと絶対言っちゃダメですね。

でも

もし私が子供を育てていて、その子がお友達のオモチャを奪ったりだとかして悦に入ってたとします。
ここで何らかの対処が求められるわけですよね。
その子に「なんで人のもの取っちゃダメなのか」って教えてあげなきゃいけないです。

私がその時にする理由付けは
「人のものを取ったらお父さんにゲンコツされるからだよ!」 でいいんだろうか。

罰ってそういうもんじゃないですか。言っても分かんない子供に対して力づくで、身体でいうこと聞かせようって言う。

『己の欲せざるところ人に施すことなかれ』というのは実際、基本形としては正しいんだと思います。
「人を殺してはいけない」
「盗んではいけない」
「精神的に支配してはいけない」
「人に暴力をふるってはいけない」

じゃあ そういう風に思ってる理由が「だって罰されるから」だとしたらですよ
「罰する人がいなかったらやっていい」のか?ってなりません?

お父さんが不在の時にやろう!ってなるかならないかは別にしてです。

パブロフの犬じゃないけど、習慣的治療法じゃないですか。本能に頼ってるというか、
「これがバレたら痛いことになる」「悪いことするとさらし者になる」
そんな保身だけで「自分が痛い目みたくないからルールを一応守ります」みたいな子には育ってほしくないんですよね。
自分に子供があったとしたらそうだし、私自身そういう風に育ちたくない。


人にいやなことしちゃいけないのは、人間が社会的な動物だからじゃないですか
後々自分の損になるからじゃなくて、お互いを人間として認め合うためじゃないですか。
お互いの尊厳の為じゃないですか。

子供のうちにそこを学ばずに社会に出てほしくない。
相手の尊厳を一切鑑みずに、「自分が痛い目に遭いたくないから悪いことしない」みたいな保身が全てみたいな子にはなってほしくない。

だから「罰」全般が良くないと思う。


実際のところ、
もしかして現代のさばっている権力が肥大した人間(上の立場の人間)が、下の人間に対してひどいことしちゃうのは「罰する人間がいないと思ってる」からじゃないかなって思うんですよね。
痴漢とか。あれは実は性欲の処理ではない。権力の誇示じゃないですか。 いやどっちも嫌ですけど。

あれはあの人たちが「痴漢しちゃいけない理由」=「捕まるから」だと思ってるからじゃないですか?
だって「ばれなきゃいい」感じになるじゃないですか。

そうじゃなくて、「される相手の尊厳を切り刻むから」やっちゃいけないんだっていうのが、痴漢に抜けてるのはなんででしょうか。

痴漢が子供の時、「お母さんにゲンコツされるから人を傷つけてはダメ(お母さんより強くなれば怖くなくね?)」って思って育っちゃったからってのが原因の一つではないのかな?

とか思うわけです。

『罰されるからやっちゃダメ(処刑人が不在なら/処刑人より強いなら何をしてもかまわない)』
を象徴的によく表現してるなと思うツイートがあります。
痴漢防止のポスターに実際の女子高生の方が採用されたときの件覚えてるでしょうか?下記はその時にバズったご意見。


うん。ちんぽ切り落とすぞって脅さないと、ダメなんだとしたら 
痴漢の犯人は、最後まで自分が奪った尊厳を尊厳として対等に扱えぬまま、
訳も分からないまま、女の子のこと、人間だとも思えないままじゃないか。
と思った。そんなの悲しい。

別にここにおいて、やる美さん(ツイート主)への批判をしてるわけじゃないし、
このツイートのコメディ的な価値を見てないわけじゃないです。ネタ要素とガチ要素の混ざった切れ味の鋭いツイートだと思う。日本語がすごくうめえ。

何をほざこうと痴漢対策は一朝一夕じゃないですしね。半分ネタなのわかってるけど、ガチで切り落としたちんぽのポスターにしたら効果あるんじゃないですか。
ないとは言えないと思う。

でもそれが悲しい。
効果があってしまうであろうことが、悲しいんです。
「相手に保身をさせることによってしか犯罪を抑制できない」事実
それこそが前時代の人格形成の敗北じゃないですか。


We are better than that.


自分が損する!という気持ちがないと、悪いとわかってることもやめられないのか。

「罰」の教育、敗北なんじゃねえのこれ?と思ってるんです。
「罰」をあんまり恐れる必要のなくなったかつての少年少女はもうもしかして罰以外に気にかける要素、無かったんじゃない?
「ばれなきゃいいや」ってなっちゃうんじゃない?

人間なんだから言葉で、教育をと、思うんです。
お前が人を傷付けちゃいけないのは、後の保身のためじゃないです。
現在の尊厳の為です。お前自身の。そして相手の尊厳の為です。
それを教育、してこなかったんじゃないの。


今度の「体罰ダメだよー!」という明言は、そっちの教育を促す一つの道だと思うんだ。

●2.で、罰する側に回ってほしいですか?

さっきの痴漢撃退TWも、一種の断罪カルチャーだと思うんですよね。
「罰」が、ある種日本の集産主義(個人主義の逆/グループ調和主義)の中で異分子を廃して自浄作用のようなものを持ってたんだろうなーとは想像がつくところだし、日本の国境に守られた一種のエリート主義のお陰で、凶悪犯罪率とかめっちゃ低いんだろうなとか思ったりはするんですけど。

兎角断罪カルチャーです。
woke cultureのとっても最悪な側面の一つです(woke culture:人種・性などの差別とかに意識的でいようっていう潮流。逆に意識的でない人間を叩いてしまう難点がみられる)。

断罪は恥辱であり1つの「罰」ですよね。
社会的な死をもたらそうっていう。

ところでこちらのツイート群を見てほしいです。 

フランスの水のペットボトルのデザインで、可愛いカップルのイラストが描いてあったんですが、それがゲイカップルだったんだって。 それを見た一般人の方が「ゲイ宣伝しすぎwいい加減うざいわw」みたいなことを言ったっぽいですね。(だいぶん意訳です。ご留意。)
それに対して販売元の会社が「垢消せ(`・ω・´)」って言ってます。

いや、胸スカですね!!
バズりっぷりを見て!!我々皆正義の味方!!!!
断罪カルチャーです。いやーー成敗してやったわ。

さて

罰とうっぷん晴らしは別です
躾とアビューズ行為は別です


こういう匿名性又はものすごいビッグネームで、一般個人の失言をぶった切って晒上げるこの「罰」は どの程度「うっぷん晴らし」と違うんでしょうか。

罰とうっぷん晴らしの境界、分かりますか?

多分ないんですよねそんなの。人間は感情を持った生物だから。罰のつもりでやって1%スカっとしちゃったらもうそこには「うっぷん晴らし」が1%混ざりますね。

これについて 私が大好きなTED talkがあります。日本語字幕有りなので安心してどうぞー! 


※「誰も見てないと思った」「別に本気じゃない」心の声までを、社会のでっけえ胸スカの為に「罰」するの、やっぱり違うと思うよね。って話です。

「ホモフォビアは悪だ」「罰しよう」「なぜなら我々は正しいから」
という理由で我々は

やりすぎます。

その人だけが悪いに決まってるみたいな顔をして。


さっき痴漢がそうやって育っちゃったのは教育の敗北ーみたいなこと言いましたが、
他にも例えば
いじめられたら人格は荒むし、
DV受けたらDV奴に育つし、
犯罪を見て育てばそれが普通になりますし
差別されたら仕返ししたくなります。
脅威を感じたら反発したくなるに決まってる。

さっきのペットボトルの一般人がヘテロ男性だったとして、
昨今のwoke cultureに居場所奪われるように感じていたとしたら、
軽口の一つもきっと言いたくなったんじゃないのかな。
虐待されてた過去があの殺人に結び付いたんじゃないのかな
昔いじめられてたから、別の人間を標的に復讐してるつもりなんじゃないのかな
昔の教育が間違ってたから、こんな風になっちゃったんじゃないかな


その人は加害者である前に被害者であったのではないかな。


社会の教育が失敗した、どこかで見逃した
どこかで助けてあげられなかった筈なんです。
だって彼ら加害者はどこかで生きていた筈だ、どこかで彼らを加害者にしてしまうような、教育の敗北があった筈。
社会は教え間違えたし、気付いてあげなかったし、なんなら無視してきたはずだ。
それをいざやらかした時になって今まで無視してた人々が飛びついて、自分に関係のない被害者の為にヒーローぶって華麗に断罪を決めるわけですね。

これについても私の大好きな大好きなTED talkをご紹介。日本語字幕ついてますよ!


※加害者になる前の被害者を、救ってあげられなかった社会の責任をどこに問おう?救えたんじゃないの。加害をする前に。


じゃあいざ加害者になってしまったら?その後は?
無論「加害者は被害者だった筈」という旨の考察は、加害者の罪を変えません。
だとしたら被害者が抱く恨みや悲しみも変わりません。
どんな理由があったって、被害者が殴られた傷の治りは早まりませんからね…。

じゃあ加害者の過去をもかえりみながら、「どうしたら再発しないだろう」って考えるのは誰の仕事でしょうか。被害者には無理です。彼らには怒り悲しむ権利があり、自分の怒りや悲しみと向き合うのでいっぱいで、加害者の事情など見てあげる余裕はありません。

じゃあこれこそが直接関係のない第三者の仕事なんじゃないの。何被害者に共感しまくって代わりに金属バットなんか構えてあげてるの。金属バットは被害者が振り回すんで充分です。第三者の仕事はそれじゃないでしょう。
被害者を救い、加害者を救え。
胸スカ中毒かよいい加減にしろ。


冷静に、より大きな文脈で見て、再発を防止するには、
ボコボコにするんじゃなくて、人の痛みで痛める人間に再教育することが必要な筈じゃないのかな。


We have to be way better than this whole bullshit.

「罰」とうっぷん晴らしは、きっと別です 。
被害者はたぶん2発くらいぶん殴りたい、みたいな事案もあると思う。
被害者は制裁を求めてる。

だから第三者である人々はーーー
つまり子供同士のけんかだろうが、こういう事案だろうが、
「罰する」側に立ち続けてきた我々は、
罰じゃなくて教育するんじゃ、ダメなのかな。

っていうか、きっと「罰を通して教育してる」つもりだった頃もきっとあったんです。

でもその教育自体が「罰されないなら何してもいいよ」になっちゃってるだけでなく
本来の教育よりも、「大衆のうっぷん晴らし」「親のうっぷん晴らし」に目的が転嫁してる部分がある。
そして人間が感情を伴う以上、その境目って実際どこからなんだかよくわかんないんですよね。だって被害者に共感しちゃうじゃない。ちょっと今日苛ついてたら裁きが厳しめになっちゃうじゃない。生理2日目でうっかり怒鳴っちゃうじゃない。それを「罰」という言葉に包んで、自分を顧みないのは寧ろ無責任なんだと思うんです。
裁く人間は公正でなくてはいけない、はずなんだけどそういうの、人間である限り無理だし。

だったら<普遍の正義>ぶってないで、話し合いした方が良いじゃない。と思うんです。


だから罰やめようよって思うんですよね。
罰じゃなくて初めから教育って呼ぼうよ。対話しようよって思うんです。
苦しめてわからせるんじゃない、辱めるんじゃない、痛めつけるんでもない、

「わかってもらう」「教育する」が出来たらなあと思っています。


綺麗ごとくさいと分かってはいるけど、
でも「ぶん殴ってやめさせる」にも同じだけの限界がある筈じゃないですか。
それは最後の最後の手段で良い。

罰を恐れさせる前に、より良い調和を目指して恐れずに生きることを学ばせてえ。

「罰」から離れて育てば、きっと「罰」しない人間に
もっと豊かな人間に、なれるんじゃねえのかなあ

体罰も恥かかせるのも断罪も、
子供にはしたくないし、誰かにしてるとこ見せたくもないなあ。

だってもっと良い解決方法が絶対にあるに決まってる。
次世代の子供たちが、少しでもそれに近いことを祈ってます。

まあ私子供いないんですけどね…

byさつき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?