今更、映画「沈黙-サイレント-」をみた(一応ネタバレ)

今更ながらマーティンスコセッシの沈黙をみた。
キリシタン弾圧下の長崎を舞台に、極限状態で信仰が行き着く先はどこなのか、袋小路に追いやられた信仰がどのようになるのかを検証した映画のように思った。

寄る辺ない人生への不安を忘れるため、偶像として物語としてすがる信仰がはじめに描かれ、それが次第に自らの苦しみ裏切りに向き合い、ひたすら神に問い、自らの絶望に目を凝らし、自らを知り、生きることを決めるという信仰本来の姿を描ききるに至る。偶像として外にいた神は、問い続けることによって内に宿った。

内なる神との対話とはつまり、自分自身との対話である。
ここに描かれた信仰とは、ほとんど信念といえる。


今のタイミングでみてよかったと思う。
自らに問わず、自らを知らない人間は妄信的であったり、踏み絵を踏む段階にいくまでもなく「転ぶ」
情報の間で、偶像の間で、右往左往する。それは、自分では何も見つけず、何も意思しないからだ。

自分の現実、そして自分自身を見つめ
自分で意思し、決定することが
この寄る辺ない人生を生きていくために必要なことではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?