夢日記 ~その家~
昨日の朝に見た夢の話です。
*
よくある住宅街の、よくある戸建て。時刻は昼下がり、やや曇天。
俺は、その家へ家庭教師として招かれており、さほど大きくない食卓に座って、何かを待っている。
その日が家庭教師の初日のようである。
家の人と面接とかをした場面や記憶はないが、まあ何らかのプロセスを経て採用されたのだから、俺はそこにいたのだろう。
俺の年格好は今よりひと回り若い――つまり三十前後であり、俺の座る右側には(夢の)俺と同世代と思われる、その家の奥さんが座っている。
俺と奥さんとの間に会話はなく、妙に気まずい雰囲気が漂っている。
初対面ではないにしろ、会う機会があったとしてせいぜい一度か、二度か。
知り合って間もない相手と世間話のひとつもないとなれば間が悪くなるのも無理はないが、どうもその場の雰囲気というのが必要以上に深刻というか――互いに距離感がうまく縮められないことで生じる気まずさ以上の何かが横たわっている感じで、すこぶる居心地が悪い。
実際奥さんはかなり落ち着かない様子で、壁に掛かった時計に頻繁に目を遣り、しきりに何かを気にしている様子。
最初はその家の子ども――つまり俺の生徒――の帰りが予定より遅いことにやきもきしているのかなと思っていたのだが、どうやらそうではないことに、やがて俺は気が付く。
奥さんが時刻を確認する際、同時に俺の様子を横目でうかがっている。
その視線は、怒りと怯えに満ちている。
そこで、夢ならではの驚くべき設定が、音もなく明らかにされる。
奥さんは、まぎれもなく俺に対して怯え、落ち着きを失っている。
その原因というのは、目の前の男(俺)が自分に対して劣情をもよおしていると思い込んでいることにあるようだった。
冗談じゃない、と俺は思う。
たとえばその奥さんのことをやたらにジロジロ見るとか、俺の方に何かしらのやましい振る舞いがあったのであればまだしも、そもそも会話がなければ彼女の方を見遣る必要もないわけだし、遣りどころのない俺の視線は、カレンダーの風景画であるとか、自分のいるリビングの隣にある子ども部屋(和室)の散らかり具合などに向けられていたに過ぎない。
また――あるいは失礼&蛇足かもしれないが、あちらさんも俺に十分に無礼をはたらいている状況なので遠慮なく言わせてもらうけれど、自分の嗜好と照らし合わせてみても、彼女の姿形に俺の性的興味を喚起するような要素は、どこにも見当たらなかった。
しかしまあ――それはあくまで俺の主観の話。
自分で気付かぬ間に、彼女に不愉快な想いをさせていた可能性だってゼロではない。まったく心当たりがないだけに、それはそれでマズい。
むろん俺になんの非がなかったとて、その奥さんが己の思い込みだけで人を無遠慮に強姦魔へと仕立て上げるような思考回路をお持ちの方であるのなら、この先とてもついていけそうにない。
いずれにせよ――これ以上、この奥さんに関わらないほうが双方のためだと判断し、家庭教師の話を辞退する旨を伝えようとしたところで、玄関のドアの開く音がする。
待ってましたと言わんばかりに、奥さんは小走りで玄関のほうへ消える。
俺は自分の上着や荷物を手に持ち、忘れ物のないことを確認したうえで、同じく玄関へ。
帰ってきたのはその家の子どもかと思いきや、玄関には高身長で、非常に綺麗な顔立ちをした、ビジネススーツをまとった男が立っていた。
この家の主人のお帰りである。
時刻はおそらく15時頃。一般的な勤め人の帰宅時間としてはちょっと早すぎるのではという印象を抱く。
年の頃は(夢の)俺と同世代か、少し下の印象。
主人は、やや大きめの花束を片手で抱えている。たまたまその日が夫婦の記念日か何かなのだろうかとどうでもいいことを勘繰っていた俺に対し、あろうことかその花束が向けられる。
それは「今日から家庭教師をどうぞよろしく」といった意味合いの、俺への贈り物だった。
主人の心意気に他意はなさそうだったが、その脇に立つ奥さんは相変わらず、全身で俺を警戒している。
そして、俺の意思も変わらない。
花束を受け取ることなく、申し訳ないが今回の話はなかったことにしてほしい、理由は聞かないでほしいと、主人に対して告げる。
すると「そんなこといわずに」「なにがいけなかったのですか」「契約と違う」などと血相を変えて引き留められる。
その段では何故か、奥さんも旦那と一緒になって俺を必死に説得しようとしている。
俺のことを、野蛮人のように散々蔑んでいた、それと同じ瞳で。
この時の奥さんの行動の不可解さが、俺がその家を離れる決定打となったようにも思う。
まるで話にならない夫婦を押しのけるようにして家の外に出て、玄関のドアを閉める。
すると家の中は途端に静まり、あとから俺を追いかけてくるような気配もなかった。
外気を吸い込み、ほっとしたのも束の間、玄関を出たすぐのところにひとり、男の子が立っていることに気が付いた。
小学四年生くらいだろうか、表情はなく、ただ俺の目をじっと見ている。
おそらくは、俺が勉強を教える予定だった――この家の子なのだろう。
出し抜けに現れたように思えたその少年に対し、俺はにわかに身構えてしまったが――あるいは、しばらく前から、そこに立っていたのかもしれない。
素知らぬフリで立ち去ろうかとも思ったが、それも心苦しく、俺はしゃがみこみ、自分の目線を彼に合わせる。
少年に、言葉を発する気配はない。
しかし、「助けてほしい」と伝えてくる。
伝えてくる――それはいわゆる「脳に直接話し掛けています」みたいなテレパシー的なことではなく、ただ単に彼の瞳が訴えているものを俺がそう解釈したにすぎないのだが、確かに――そう"聞こえた"気がする。
一瞬の躊躇ののち、「ごめん、俺には何もできない」と告げ、ズボンのポケットに入っていた紙片に自分の電話番号を書くと、彼に渡した。
その家の門を出るとき、もう一度振り返ってみようかと逡巡しているところで目が醒めた。
それではさようなり。
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