ウサギとカメs

虎視眈々

100回勝負してウサギが昼寝をする確率はどれくらい?

 どうしてカメはウサギと勝負なんてしたんでしょう。 
 この寓話が嫌いなわけではありません。コツコツ努力することに希望を感じさせてくれます。優位だからと油断しないように戒めのメッセージでもあるでしょう。

 ボクはマラソンが苦手でした。

 一生懸命走っているのにいつも結果が良くないのです。
 それでボクは順位をつけたり時間を競ったりするマラソンが苦手でした。 たぶん、得意な人にとってみれば活躍の舞台なのでしょう。苦手なのはマラソンばかりではなく体育系全般が苦手だったわけですが、身体を動かすことも走ることもが嫌いなわけではないと思っています。競争さえなければ、勝敗さえなければ、少しは体育の苦手意識を持たずにすんだのかも知れないと思うのです。とりあえず、苦手意識がない程度に平均的なタイムでゴール出来ることが切実な願いでした。
 軽自動車に乗ってたって走るのは好きだってこともあるでしょう。パワーのある車と勝負すること自体がナンセンスです。

 鍛えれば身体は強くなると言います。健康を維持するためという意味でも否定はしませんが、画一的な見方で結果が出なければ努力が足りないと見なすのはあまりに一方的な理論です。
 見方を変えれば、昔の小中学校のマラソンは走るのが得意な人を見つけるためにみんなが協力していると言えるのではないでしょうか。一緒に走っている人の存在がなければ、1位も2位もないのですから。
 そんなわけで小中学校及び高校のマラソンはいつも憂鬱でした。走りたい人だけで走るのではなく、走るのが苦手でも同じルールで走らなくてはなりません。何とか結果を出したいと頑張ってはいるつもりでも毎度下位に終わってしまうのです。
 ボクは頑張るとか努力することが足りないのではないかと思っていました。

 肺がパンクするんじゃないか。
 心臓が破裂するんじゃないか。

 それくらい頑張ったつもりでもやっぱりダメなのでした。

 高校時代には先生が心配する程でした。
「大丈夫か?」
 体育の先生は、普段厳しい方でしたから気がついてくれたことには感謝しています。
 ボクは大丈夫ではありませんでしたが、いつものことです。

 頑張って頑張って…それでも平均タイムにさえ届かない現実を何度となく繰り返し味わっていました。友達はそんなに苦しそうではないのでやっぱりボクの努力が足りないと思うしかなかったのです。

 それから時が流れ、ボクは社会人となりました。

 ある時、風邪をひいたらしく咳が止まらなくなったので病院へ行きました。すると先生が「肺炎になってるといけないからレントゲンを撮っておこう」と言います。

 撮影した胸部のレントゲンを眺めながら先生が言いました。
「体つきの割に心臓がスマートだね。」

…意味が解らなかったので先生に尋ねました。
「それって、心臓が小さいってことですか?」

 先生は何食わぬ顔で言います。
「大きいよりはいいんじゃない。」

 幸い肺炎には至っていませんでした。

 ただ、ボクは自分の知らなかった謎が解けたような気がしたのです。
「ボクはちゃんと頑張っていたんだ。怠けてたんじゃなかった。」

 思えば、注射の時に血管が細いと言われたことや、寒さで霜焼けになりやすかったこと、色白で「顔色が良くない」としばしば言われたことなど、すべての原因がそこにあったような気がします。ところが、そうとは知らないボクは、せめて平均に辿り着こうと頑張って来たのです。
 ボクはマラソンに関して頑張ってはいけなかったんだと思っています。

「みんなそれぞれ持っているものが違う」

 文字通り身を以て知った想いがしました。根性論で取り組んではいけない場合があるわけです。誰もが自分自身のことについて知り尽くしているわけではありません。客観的視点を持つことができないので、もしかしたら自分自身のことについて最も知らないのかも知れません。 

 社会には様々な競争が存在します。少なくてもそれらの多くは努力の質や量を評価するものではなく結果を評価します。最近、成果主義という言葉を見聞きする機会があります。言葉が独り歩きして都合良く解釈する人が出て来るような気がします。コスト削減には打ってつけのフレーズです。

 企業などの採用試験でも応募者と合格枠の比率によって関門を通れる人は限られます。
 リーマンショック後の混迷の時期、厳しい状況に陥った人もあったと思います。仕事をしたくても採用されない。面接どころか書類選考ですべて落ちてしまう…と。社会現象になりましたから応募者側だけでなく採用者側も大変な時期だったのかも知れません。
 その声に呼応するようにハローワークなどでは「履歴書の書き方」を指導することもありました。結果、募集した企業が個性のない履歴書に困惑することもあったとか…どこかおかしいと思うのです。

 履歴書のフォーマットも画一的で面白くありません。もっと広告のようにバリエーションがあったっていいのではないでしょうか。
 もっとも、履歴書が広告のようなバリエーションが出来たら、個性的な履歴書の作り方を指導する人が出て来るでしょうから採用者側はまたも大変です。

 そもそも頑張ればホントに何とかなるんでしょうか。確率は変わらないのですから、誰かが採用されれば他の誰かが採用されないのが現実です。ひとつしかない門戸に多くの人が殺到すれば、ただの消耗戦です。苦労の果てに採用されても現場に馴染めず退職する羽目に陥ることだってあるでしょう。みんなが頑張れば、底上げすることになるだけなのです。その競争に何の意味があるのでしょう?そうして競争を勝ち抜くことが目的ならそれもいいでしょう。問題は、その組織でいかに貢献するかであるはずです。貢献とは競争することばかりではなく協調性だったり生産性だったりもするでしょう。仕事そのものは実際に就業してからでないと解らない場合もあります。その適正すら評価しているようには思えないことが多々あります。

 デザイン事務所などでは、履歴書と職務経歴書の他に作品を添付するように求められるのが一般的です。履歴書や職務経歴書では見えない部分が作品によって明らかになり、ひとつの判断材料となります。
 絵画やイラストの展覧会は履歴書のバリエーションの進化系と見ることもできるでしょうか。作品には生き方や考え方、哲学のようなものが表現されます。基本的には好みで良いわけですが、審査するとなると作品のメッセージを読み解く力が求められるでしょう。

 競争は誰にとって得なのでしょう。競争させてトップをピックアップ。それは即ち組織にとって好都合な人材を選択する手段のはずです。
 新しい仲間を迎える場合、欲しいのは競争意識の高い人ですか?協調性の高い人ですか?それがどこで評価されるのかが全く見えません。

 頑張っている人にとって頑張っていない人は不都合です。努力を否定されているような気分になり、一緒に頑張って欲しいと感じます。頑張ってない人にとって頑張っている人は不都合です。マイペースを否定された気分になります。
 頑張っていない人が頑張っている人の評価を高め、頑張っていない人は頑張っている人に支えられていることを見落としがちです。

 果たしてカメはウサギと勝負する必要があったのでしょうか。カメにはカメの長所があるはずです。バカにされて悔しい気持ちは解りますが、まぐれや奇跡を期待して勝負するのはカメの長所を活かしているとは言えないでしょう。

 ダメかもしれないけどやってみる。

 頑張ることそのものが目的ならそれも悪いことではないでしょう。周囲が強要するとおかしなことになるだけです。
 適正を知り、志向と照らし合わせ、挑戦する。
 熱い情熱は冷静な計画を得て目的地への力になります。直行便がなければ回り道でもいいでしょう。燃料がないのに飛べば辿り着けません。
 どうしてもやりたいことがあるのなら虎視眈々と機をうかがうことも大切です。

 幸い、運動が苦手なボクでも美術系に苦手意識はありませんでした。不器用なので得意と言う程ではなかったものの、好きなので美術の時間は楽しみでした。きっと体育系が好きな方と志向が違うだけなのでしょう。美術系は個性が重視され、順位や時間を意識しなくて良いので伸び伸びやれるのが好きでした。楽しんだ気はしますが、頑張った記憶はないような気がします。
 考えてみると、ボクは色彩感覚が秀でているわけでもないので絵とかイラストも得意かと言われると自信がありません。ただ、好きだから続いています。マラソンと違って身体能力で大きく不足していることもなさそうです。
 人にはそれぞれ個性があり相対的に凸凹しているものなんだと思います。学校では平均を基準にするのでことさら凸凹を強調されますが、何も平均的である必要なんてありません。自身の特性を知ることに重きを置くべきではないかと思うのです。

 もっとも、自分の凸凹が解るまで長い時間と失敗の積み重ねが必要があることは言うまでもありません。

 誰もが人生という長い旅をしているようなものです。必要なのはストップウォッチよりコンパスですよね。


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随想帳

ご精読ありがとうございました。

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