イザベラ・バード常識を覆した航海者
イザベラバードは、19世紀から20世紀初頭にかけて活躍した探検家であり作家です。
彼女は幼少期から父の職業上の移動に伴い、様々な地域で暮らす経験を積みました。このような環境によって彼女は幅広い知識を得ることができ、旅行と探検の情熱を育みました。
彼女は23歳の時に医師の勧めでアメリカとカナダを訪れ、これが彼女の世界各地への旅行の始まりとなりました。彼女はその後もロッキー山脈、サンドウィッチ島、日本、マレー諸島、カミュールとチベット、ペルシャ、韓国、中国など、多くの地域を訪れました。
特に日本における彼女の功績は顕著です。明治11年の6月から9月にかけて、彼女は47歳の時に東北地方と北海道を旅行しました。この旅行の記録は1880年に「日本奥地紀行」(原題「日本の未踏の土地」)として2巻にまとめられ、出版されました。彼女の旅行記は、当時の日本の未開な地域や文化について詳細かつ貴重な情報を提供し、後世の研究者や歴史愛好家にとって重要な資料となりました。
イザベラバードの探検旅行記の出版や、彼女が訪れた辺境地域の記録は高く評価されました。そのため、62歳の時には英国地理学会(Royal Geographical Society)の特別会員に選ばれるなど、当時の女性にとっては異例のものでした。19世紀末から20世紀初頭にかけて、女性の社会的地位はまだ限られており、探検や旅行は男性の領域でした。しかし、イザベラバードは固定観念にとらわれず、自身の好奇心と冒険心を追求し、素晴らしい業績を残しました。
彼女の旅行記や著作は、彼女が訪れた地域の文化や風景、人々の生活について生き生きと描かれており、読者にとっては興味深い情報源となっています。彼女の功績は、探検家や作家としてだけでなく、女性が自由に行動し、世界を探求することの重要性を示すものとしても評価されています。
この旅行は、当時のイギリス公使であるハリー・パークスの立場から企画されたものでした。バードは彼の依頼に真摯に応え、使命感を胸に旅を遂行しました。彼女の旅行記は、ハリー・パークスの計画に基づいて進行し、日本の未開の地域や重要な神社などを訪れることが含まれていました。
『日本の未踏の地:蝦夷の先住民と日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告』というタイトルの大著には、彼女の日本での旅行の詳細が記されています。この本は、2巻にわたり800ページ以上にわたるもので、バードが日本での体験や観察を公的な報告書としてまとめたものでした。
彼女の旅行記は、妹への手紙のような私的な内容ではなく、より公的な視点で書かれていました。バードは、日本の文化や風習、地理的な特徴などについて詳細に記述し、その時代における日本の状況を明らかにしました。
イザベラ・バードの旅行記は、その豊富な情報量と彼女の洞察力によって高く評価されています。彼女は単なる旅行家ではなく、文化交流や理解の促進に貢献する使命を持った人物であったと言えます。その膨大な著作は、日本の歴史や文化に興味を持つ読者にとって貴重な資料となっています。当時、日本に在住する民間外国人や外国人旅行者は、横浜、神戸、長崎、函館、新潟といった5つの開港地および東京、大阪といった2つの開市地から半径10里(約40キロメートル)以内の範囲内でしか自由に移動することができませんでした。この範囲は「外国人遊歩区域」と呼ばれ、それより奥地を旅するには「外国人内地旅行免状」という許可証が不可欠でした。また、さまざまな制約も存在しました。
このような時代に、イザベラ・バードはアイヌの集落である平取を目指して北海道へ旅し、さらに関西地方や伊勢神宮へと旅を続けました。
北海道への旅は、陸路で東京から平取まで約1400キロメートル、復路の函館から横浜までの海路を含めると約2750キロメートルに及びました。関西地方や伊勢神宮への旅は、陸路で約580キロメートルであり、横浜から神戸までの船旅を含めると約1850キロメートルとなります。これらの旅を合わせると、総行程は4500キロメートルを超えました。
当時の旅の厳しさは現代とは比べ物になりませんでした。鉄道を利用できるのは横浜から新橋までと神戸から京都までの区間のみでした。馬を使った移動も北海道の一部の地域に限られていました。旅人は人力車を利用することもありましたが、馬や牛に引かせた車やぬかるんだ道を歩くこともしばしばありました。また、増水した米代川を小舟で remi 進む際には命を落とす危険も伴いました。
この時期は梅雨が通常よりも多雨で長雨であり、困難な状況が続きました。しかし、旅行の達人であるバードは伊藤鶴吉を従者兼通訳として同行させ、彼が責務を果たすことで旅行を成功させることができました。
伊藤は英語の能力だけでなく、イギリスの植物採集家であるチャールズ・マリーズとの経験も持っていました。実際、旅行免状の申請時には「植物調査」の目的も加えられていました。バードの旅は、在日欧米人の宣教師や著名人、公使館員、領事などを始めとする日本側の支援を受けていました。これらの支援は、外務省や開拓使、内務省などの関係機関から府県や役人、医師、教師、宿の主人、子供たちにまで及んでいました。彼らの協力によって、バードは夏の最中に冬の遊びや葬儀、結婚式に参列することができました。また、バードがアイヌの文化と社会を理解し、それを記述することを目的としていたため、平取のアイヌの人々、特に平村ペンリウク(アイヌの指導者の一人)の協力も不可欠でした。これらの協力は、パークスが開拓使を通じて手配したものでした。
彼女の旅は地元紙でも紹介され、読者には視察旅行であることが伝えられていました。また、旅は計画的に準備され、ルートは目的に従って事前に設定されていました。例えば、日光から会津を経て津川から阿賀野川を舟で下り、新潟に到着したのは、新潟が開港地であり、宣教師の活動を学び知るために訪れ、新潟の様々な実情を明らかにするためでした。バードが使用したブラントン日本図も、パークスの指示によって彼女のために作成されたものでした。
彼女の旅は、キリスト教伝道の目的を持ちながらも、興味を持ち、出会った人々や目にする風景に対して綿密な関心を寄せました。彼女は率直な思いを吐露しながら、鮮やかに旅の様子を描き出しました。この能力は、少女時代から彼女が培ってきた鋭い観察力に基づいており、彼女を優れた旅行作家として際立たせる要素でした。
イザベラ・バードは、その後も世界各地を旅し、多くの著作を執筆しました。彼女の旅行記は、探検家としての視点と文学的な才能が結びついており、彼女の冒険心と好奇心が読者に伝わる作品となっています。
イザベラ・バードは19世紀の探検家であり、女性としては非常に進歩的な考えを持っていましたが、直接的にフェムテック(女性向けの技術やイノベーション)に貢献したとは言えません。彼女の主な業績は、旅行記作家としての活動であり、世界中を旅してその体験を文書化しました。
ただし、イザベラ・バードの業績や人物像は、女性による探検や冒険の可能性を広める上で重要な役割を果たしました。彼女は19世紀のヴィクトリア朝時代に、当時の社会的な制約に反して単身で世界を旅することに挑戦しました。その勇気と決断力は、女性の自由な行動や冒険への参加を促進する上で先駆的な存在となりました。
イザベラ・バードのような先駆者の存在は、女性が社会的・文化的な制約にとらわれずに自己実現し、個々のニーズに合った技術やイノベーションを求めることを奨励しました。そのような状況の中で、フェムテックの発展や女性の健康に関連する技術の進歩が進むことにつながったと言えます。
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