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私という生き方

わたしを
わたしたらしめるものは
「記憶」と「魂」である。

「魂」が肉体という「器」に入り
この世界に「人間」として生まれてきた。

そこで、この世界で生きていくために様々なことを学ぶ。

そうしてできあがっていく。

嬉しいこともあれば
不本意なことがあったりして。

この物質界では
いろんなエネルギーが混在している。

そのなかで
「自分らしく」といわれても

「らしく」いることを
教わっていないのだから

そら、のたうち回ることになる。

なにも気づかず
考えることをせず

ただただ日々をたんたんと
過ごすだけの生き方なのなら

なんの疑問も出てこないなろう。

ところが、この「わたし」という生物は、そうでは無かったらしい。

無意識的に何かを思いながらも
「らしく」いてる“つもり”で
数十年後生きてきた。

教わっていないのだから
わたしがおもう“らしく”でいようと。

これが“らしい”とおもい
それで生きてると
また、おかしなことにぶち当たる。

「では、これなのかも」と
それでいると、しばらくして
また、ぶち当たる。

そのくりかえし。

近ごろ、またぶち当たる。

なぜかと自分に問う。

すると、
何もないと思っていた記憶から
なにやらでてくる。

「あたりまえ」として気にもしてなかった記憶が、まったくもって
「あたりまえ」などではなかった。

さて、この「あたりまえ」は
どこの視点からみたものか。となる。

この「あたりまえ」を
おりこうさんの頭でみると
「あたりまえ」であり

おりこうさんをやめた頭でみると
まったくもって「あたりまえ」では無いのだ。

この、驚きと衝撃といったら!

この「記憶」を探り
おりこうさんではない頭で考える。

いやはや
この「記憶」のときの、おりこうさんのわたしを、

おりこうさんでは無い視点から見るのだから、そら。。ね。。。

そうやってまた
新しい「わたしらしく」で生きてみて

また、ぶち当たったら

おりこうさんでは無い頭で
「記憶」を探り

驚きと衝撃を体験するのだろうなと。

まぁ、ほんとに
いとおかしなものであると。

やーーー、

甘えたかったんだな。
「記憶」のなかの
おりこうさんなわたしは。

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