国とは?
皆さんおはようございます!「国」ってなんでしょうね?
国ってどこで意識しますか?
■人が認識できるデータ量と、それに対しての日々の「解像度」の変化
国はそもそもウェストファリア条約以降に強固になった概念であり、
実は本当はジブンゴトにできる領域と範囲は、人間、そんなに大きくないはずで
脳が処理できる情報量のキャパも限られているので、
これまで5メートルの広さで考えてた場合の密度は、
数キロメートルの広さで考えたらその密度が薄くなるように、
ぬかをつけ、釜で米を炊き、カヤで屋根を作り、家を補修し、畑をしていた日本人も、
どんどん生活が簡略化されているのは、ある意味、意識が国家とか世界に向いて
日々への解像度が薄くなっているんじゃないかと思っています。
しかもインターネットでそれは加速し、テレビでも、
正直自分と関係ない、他の地方での殺人事件とか(しかも世界で起きていることの本の1事象に過ぎないのに)が流れ、
他に意識が活き、そこに時間を割いている。(自分の生活が疎かになる。)
世界の端っこの出来事は関係あるっちゃあるけど、
それ関係あるといえば世界全て関係あるのに、そこに具体的に何かを全部にできる人は本当に一握りにも関わらず、
意図した切り取りが放映されるこの世界は心底偏っているなーと思います。
が故に、織田はより一層、クローズド、村などが今後ポテンシャルがあり、ライフリテラシー(豊かに生きれるためのリテラシー)が高くなると思っています。
■デジタルで変わる国境?という理想
国のくくりとかは、実は地政学×一部人の勝手な決め(アフリカの国境の線引き)でできていて、
でもそもそも「国」って、共同幻想だと思っています。
あそこの人と僕らは同じ人種、という括りには、
どれほどに裏付けがあるのか。
そもそも、コミュニティって、大きいも小さいも様々あり、
それらは被ったり被っていなかったりですし、
市とかも、この区切りはこの区切りで納得も行くけど、
でももっと細かな区切りにしたり、明石とか西宮も含めた、兵庫より小さいくくりがあってもいいし
すごく曖昧な感覚がきっちり分かれているのがおもしろいなーと思います。
その中で、デジタルは、その国境とか通貨とかを崩す可能性があり、
むしろ陸で繋がっていない遠い場所でも、心や興味関心が一緒という理由でコミュニティになったりもする。
そしてこういう常識がどんどん増えてくると、国という概念は薄くなり
税金への疑いも生まれやすくなったり、
国家安全保障という考え方も、共同幻想同士の対立なので、人間って変だなーと思ったりします。
■ないところからの方がイノベーションが生まれる
神山町、Shordich(イギリス)など、昔評判が良くなかったところにアーティストという、指標で測れない存在が集まり、街が再生するケースって多いと思っています。
そう言ったところは「ないところ」が多く、ないからこそ期待されず、
でもだからこそ指標が介入せず、自由なイノベーション的な街の発展が生まれた。
それを真似しようとした時点でちょっと指標的になり、真似するものじゃないんだろうな、と思ったりします。
そう思うと、「指標にできるなら既に賢い人がやってる」んじゃないかな、と最近思います。
(具現化できるかどうかは別なので、ちょっと織田はずれてるかもですが)
つまり、「今までにない指標をつける」とか、
場合によっては指標にないけど心がそう言うのでそれをやるって可能性を感じてしまうのと、
行政も、実はそう言うことができるポテンシャルがある組織なんじゃないかなと思ったりもしています!
ここら辺はまだ織田も思考の発展途上のなので対話したく、
色々思ったことがあれば是非みなさんのご意見も是非ください!^^
今日も皆さん素敵な1日を!
アート、教育、探究、子育て、生き方。アーティストとして、スクール長として、本音しか書きません!