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言葉とアート

■ロシアとウクライナ

その話題書くの?って感じだと思うため、気を付けてかきます。

というのと、あくまでも個人意見と事実を分けます。


ただ、事実の方も、織田の主観でピックアップしている事実なので、それも偏りがあるという前提だけご理解ください。


ロシアとウクライナの話に対して思うことは多々あるし、武力行使はよくないけど、

織田個人意見では、ロシアを100%悪と思えてなくて、ゼレンスキーが正義だとも全く思っていないのが織田です。


同時にこういう議論は、関わる人全員のことを知ることは難しいし情報は偏るため、

自分の感情は感情として伝え、他は事実について話すようにしています。


この話が出た際に、逆に織田が事実であるとして言えることは

・過去にNATOが西側に勢力を広げないということをゴルバチョフ時代に約束をしている

・アメリカのGDPは多くを軍事産業や武器に依存してる

ということで、でもこれも織田が自分の思想に沿った事実をピックアップしているなーと思いつつも、


メディアがあまり取り上げない側面な気がしていて、

特に後者は、この構造が戦争を止めない方向に向きやすい構造だと思って、ここをどうにかすることができないかと一番思います。


■市民と国は別のもの

後もう一つは、ウクライナの友達もロシアの友達もいるけど、

市民がどうしようと戦争は起きたと思うし、

市民は政治に無関係ではないものの、

市民は被害者であり、


市民一人一人と国家とでは違うものだということだと思ってます。


特にインターに行ってた自分的には、この「ロシアが悪!」となって、

違う国(例えば日本)にいるロシア人からすると、すごく心つらいと思っています。


どうしてもメディアは偏るけど、本当に偏ってて、偏りはひずみを生むなーと思っています。


ここらへん、いくらでも書けちゃいますね、、、、!


■言葉は諸刃の剣

5年前の織田ならfacebook投稿はこれ一色になってたかもですが、

そういうことをしてたらその時めちゃくちゃ友達が減りました笑


しかも友達減ったのに、世界は何も変わらず、

一緒の世界を信じる人は引き続き、

そうじゃない人は離れる、というような感覚で、


さらには自分自身も感情に任せた文章になり、自分ももう間違いまくってもうダサダサでした。

もうダサダサ、ダサダサでしたし、もしかしたらそれ以上かもしれません。ダサダサEXハイパーマグナムでした。。。


この時、自分の言葉の扱い方の未熟さにも気づき、

同時に、正しく書いても伝わるかどうかはまた別問題で、


言葉の空虚さを感じ、

それがアートに目覚めた要因の一つでもあります。


ということで今日は政治的話題になってしまいましたが、

伝えたかったのはどちらかというと、「言葉って諸刃の剣だよね」と

「ロシアとウクライナについて、もどかしい思いを持っているけど、変な傷つけ方をしないように偏りを意識しよう」

という自分へのメッセージでした!

続きで「言葉ってもろい」が故に

アートっていいな、って思っている話です!


アートは資本主義ズブズブの領域もあれば、

資本主義においてのサンクチュアリ(聖域)のような場所が残されてる不思議なものだと思っています!


■アートは人によって受け取り方が違う

昨日、「言葉は扱いに注意したほうがいい」「言葉は伝わると思い込みがちだけど伝わらないことが多い」

という話をしましたが、


それでいうとアートは、「伝わらないかも」という前提なのがいいなーと思っています!


さらには、アートなら、いくらでも感情込めても嫌がられないし、

むしろその込めた念が「陽」に転換されやすい、

しかもそれを飾ってもらえたら、その空間の一部分をいただける、という考え方もできて、


響かない人にひたすら言葉で言うよりも、空間をいただき、

そのアートを介して関係性ができてご縁が続く方がよっぽどコミュニケーションとして効率もいい、


そういう意味でもアートは元来歴史的にもそういうツールとして使われてきたのが納得で、

宗教によって偶像崇拝を禁止したり、逆に装飾やアートにお金をかけまくる権力者はここら辺を重視してたのかも?と思います。


■非言語で解釈がバラバラになる前提がある

そしてその反面、アートは非言語だから、解釈は様々だし、

"受け手が絶対"が故に、解釈は完全オーダーメイド。


だからある意味拡散しても、

"人によって違う捉えられ方ができる"と言う前提があるのがいいなーと思ってます。


ただ、言葉はそうじゃないきがしてて、


なぜか言葉って、伝わるものだと思い込まれてる。


でも実際言葉って全然伝わらないなーと思っています。


かなり上手に使わないと(使っても)伝わらないものだと思うのに

伝わると言う前提になりがちなのが怖いなーと思っています。


■言葉とSNS


そういう意味でTwitterとかもうすごく危険だと感じていて、事実と感情が入り混じるし、

それがどういう前提かを伝えられる文字数がないのに、拡散力がある、


Twitterは昔はその拡散性が故に結構好んで使っていたし

、ブログを書いててブロガーさんやアーティストさんたち界隈でたくさん使ってある程度フォロワーもいましたが、


今はTwitterはあまり好きじゃないSNSで、数年前にブログを辞めるとともに、そのアカウントも消しました。


ちなみにここからは織田の経験からの織田のSNS系への意見バリバリで、


織田がバリバリやってた3,4年前と今とでは環境は違うので、

あーそう言う人もいるのかー程度で読んでもらったらと思うのですが、


ブログもですが、"絵を売る“と検索したら一番上に出てくるブログでしたし、

そこから導線整理してTwitter、LINE@、インスタ、YouTubeに人が流れるような仕組みにしていて、

毎月検索で、何もせずに3万人ブログに流入してくれて、そこからSNSに流れる、と言うことをしてましたが


それも、一度そう言う旨味を知ると、

検索を意識して文章を書いたりして、


"これのどこがアーティストやねん!!!迎合の塊じゃねえか!!"

ってなって、自分の理想の姿ではなく、やめました!


インスタだけ残ってて、まだフォロワー多いのはその時の名残りで、


YouTubeもコマネチ1万回した動画や、滝に打たれて感謝を叫ぶ動画が50~100回再生とかで笑

でも同時に、「クレヨンで絵を描く」が1万回再生だったりする。なにそれですよね!笑


1万回再生されてるやつはブログ経由で、検索からきています。自分で言うのもあれですが、その動画は全然面白くありません。笑

実情はこの滝に打たれている50回再生の方が実だし、この方がなんか気持ちいいなーと思っていて、


つまりインスタもYouTubeも、

特に織田のSNSは、このフォローや再生回数にはもう今になっては意味はありません。空虚〜!!


ただそれらを意識し続けるより、フォローが少なくても自由な方が好きなので、今のスタイルが最高に好きです。


そしてそういう意味で、ローカルで、顔の見える範囲同士で仕事をする、

そこから顔の見える関係同士がつながり、地域から世界へ!そんな働き方を神戸でしていきた

アート、教育、探究、子育て、生き方。アーティストとして、スクール長として、本音しか書きません!