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ふと、"氣配り"について

イベントのファシリテーションが好きで、ついつい色々考えてしまう!

その中で、決して自分ができてるわけじゃなく、今も精進中なのが"氣配り"。

ファシリテーターは、会場にいる全ての人(運営側含む)が気持ちよく楽しくいられるための氣配りだと思ってる。

この言葉の解釈を共有させてください!

■"周りの目を気にする"と"氣配り"は違う


氣配りって、しろって言われてするのがいいのか?と思っています。

読んで字のごとく"氣"を配る。
積極的な姿勢だと思っています。

それを"氣配りをしなさい!"って言われると、むしろ積極ではなく、"義務"になる。

お酒を注ぐというのも、"自分がされて嬉しいな"と思ってからするもの。

義務としてするものではないし、義務でしてしてたらそれは伝わる。

慣習がなくなってきている現在は特に。

注ぎたい人のお酒を注げばいいし、
注いだら喜ぶ人のお酒を注いだらいい。

■義務から学ぶか、失敗してから学ぶか


そこから守破離的にまずは行動から学ぶのもいいけど、

それだと、言われたからやってるだけであって、

なんで本当にしないといけないのか、結局わからないと思うんです。

どっちかというと、"痛い目を見て自分で学ぶ"方が織田は好きなのと、

織田は言われてしまうと、
必要ない時も周りの目を意識して、勝手にHP削るみたいなことが多かったので、

やはりそういう周りの目は気にせず、
自分でちゃんと失敗して
ちゃんと痛みを感じて学びたいなーと思っています。

その結果人に優しくなれたり、
周りに氣を配れるようになる。

20代とかで完璧人間になんかならなくていいし、
100歳まで不完全でも、進化し続けたらいいんじゃない、と思うんです。

昔感じた"氣配り"のイメージと、
今思う氣配りのイメージがかなり違って

そういう人って結構いるんじゃない?と思って共有させていただきましたとさ!

アート、教育、探究、子育て、生き方。アーティストとして、スクール長として、本音しか書きません!