忘己利他(もうこりた)
相変わらず、瀬戸内寂聴さんネタです。
タイトルにあげました「忘己利他」。
天台宗の宗祖である最澄様が、「己を忘れ他を利するは慈悲の極みなり」と言う言葉を言われています。
天台宗である瀬戸内寂聴さんは、法話で繰り返しこの精神を説かれていました。
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自分の幸せだけを追い求めても、人はよくに惑わされるだけで幸せになりません。
それよりも自分の利益はひとまず忘れて、周囲の幸せについて考えなさい。
自分のためだけに生きるのではなく、自分以外の人のために生きる、それが人を思いやることの極みであり、自分自身をも幸せにする道なのです。
(今を生きるあなたへより)
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天台宗といえば、岩手県平泉の世界遺産のお寺「毛越寺」にて、2018年10月に展覧会を開かせていただきました。
瀬戸内寂聴さんは、お隣の中尊寺で出家されましたね。これも何かのご縁でしょうか。
その時、妻は臨月で、10月末に男の子を出産予定でした。
僕が、この展覧会で描いた6mほどの屏風画は、奈良時代から描き続けられている「阿弥陀如来来迎図」という絵でした。
阿弥陀如来が、弟子の楽団を連れて、雲に乗って、命を全うした人間を迎えに来る、というシーンです。
詳細はホームページの記事まで
岩手日日新聞の記事。
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圧倒される大きさの屏風画を前に、ただひたすら「無事に生まれてきますように・・」と願いを込めて描いたのが、阿弥陀如来来迎図でした。
来迎図のテーマは死ですが、心情は生への祈り。巡り巡る命。先祖から繋がっていくものが、阿弥陀如来に受け継がれ、まだ生まれていでて、人生を全うしていく・・。
そのはじまりの時。
それはもう必死に願い、祈り、描きました。
「これが遺作になってもいい。生まれる息子がこの絵を見て、父がどういう人だったのか、感じればいい」と本気で思いました。
今思えば、「忘己利他」の精神だったのかもしれません。我が家族のことなので、とても狭い、身近な範囲ではありますが。
自分以外のために描く。
そのことは、今までの画業人生で、とても根っこにあるものなような気がします。
それでも、いつだって「人にどう見られるか」とか、「悲しみは癒えただろうか」、「生活は出来るのだろうか」「こんなに苦しいなら楽になりたい」というエゴが纏わり付いてきました。
弱い人間だから、そんな声につい耳を傾けて、自分!自分!という己の我欲がむくむくと湧いてきてしまいます。
しかし、利他的な瞬間のない人間はいないと思います。どこかで、「この人のために」と行動したことはあるはずですし、そういう施しを受けたことはあるはず。
その時の気持ちを、真ん中に芯を持って思い出し、「さて、どうしようか」と問うことが大切だと思います。
瞬間的には、感情の喜怒哀楽に振り回されてしまう。思考の回転で、価値観の羅列になってしまう。
それでも良い。何が悪いんだ、それこそ人生を謳歌することではないのか。
長い間、そう思ってました。だって芸術だもの。爆発させないで、絵は描けるかって。
しかし、新潟中越地震、東日本大震災、母の他界、と経験して。
悲しみや怒り、罪の苦しみや、自己否定、爆発的な喜び、達成感、充実感・・そんな激しい感情よりも、もっと静かで穏やかなもの。
自分の内部、広がりのある自分以外の世界が繋がっている、そんなことを大切に思えてきました。
最初のきっかけは、自身の悲しみや罪悪感を埋めるために描き始めた「天国のクジラ」。
その後、多くの遺族のために、クジラに描き込んだ時、どのような気持ちだったのか。
「役目を果たせた」ときに、どのような心境だったのか。
現在で言えば、パワフルになる息子の天真爛漫さに振り回され、感情が揺れ動いたり、疲れ果ててめげそうになるときに、あの必死に誕生を祈って描いた精神を、思い出してみたら。
己を忘れ、他に没頭し、願い、祈り、全てを尽くしても、幸せを祈るとき。
それは、言葉にせよ、絵にせよ、態度にせよ、人生は変わっていくのではないでしょうか。
今、向き合っている絵は。
家族、先祖、友人知人、見知らぬ国の人までに、祈りを込めて描いていくことを、改めて決意した次第です。
人も動物も、生き物も、すべて生まれて死ぬ。その生が走馬灯のように流れ、許され、肯定されるような。
静かで穏やかな風景。
僕に出来ることは、これくらいしかありません。
例え、結果は目に見えないとしても。
瀬戸内寂聴さんは言われます。「目に見えるものが大切じゃない。目に見えないものこそが大切なんだ」と。
届くかどうかはわからない。
意味があるのかないのかも、本当のところはわからない。
描くべきだから描くのか。ただ自分が描きたいから描くのか。本当のところはわからない。
車椅子生活で、家族に負担かけて、迷惑をかけて、仕事も出来ないこの日々に、ただ黙々と、描くことが、果たしてどの様なことなのか。
わかるようでわからない。
わからないようでわかる。
そんなことを感じながら、瀬戸内寂聴さんの言葉に励まされ、今日も座席を譲ってくださったカフェの方へ合掌して感謝を伝え。
昼ごはんを美味しくいただきながら、うららかな午後、再び絵筆を握らせていただきます
おわり。
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