「デジャヴ」 (短編小説)
あと一人だ…。あと一人を抑えれば終わる。
このゲームで勝ち数を取らないと、クライマックス・シリーズ進出は絶望的となる。重要な局面だ。
抑えのピッチャーとして9回裏に登板した宮本は、見事な2打者連続凡打で討ち取ったあと、マウンドの上で深い呼吸をしながら考える。
しかし、今目の前のバッター・ボックスに入り、こちらに向けて構えているのは、宿敵の「柳宗孝」。今最も勢いのある選手だ。
今シーズン、打率3割5分という驚異的な成績であり、打点、本塁打もリーグ最多。三冠王は間違いないだろう。
いつ見ても、彼には隙がない。細身の体から繰り出されるスイングは、時にボールを打ち返すのではなく、真っ二つに切ってしまいそうだと誰かが言っていたのを思い出す。
(どこを投げても打たれそうだ…)
宮本はネガティブなイメージが湧いて来たが、それを無理にポジティブに変換しようとはしない。若い頃はネガティブなイメージを払拭しようと奮闘したが、今はネガティブな心理や感情を受け入れた方が楽になり、そこから思わぬ視点が開けるということ経験で知っている。
一方バッターボックスにいる柳は、ピッチャーマウンドから獲物を狙う猛禽類のような目で睨みつける「宮本武明」に対して、蛇に睨まれた蛙のような心境になりそうだった。
球界で数々の偉業を打ち立てた宮本。メジャー行きのタイミングを逃してしまったが、おそらく海外でも活躍しだろう。現にWBCではMVPに輝く、完璧なピッチングを世界に示したのだ。
柳は今、どんな球を投げられても、当てることはできるだろうと踏んでいた。宮本の球の癖は研究している。
しかし、どんな風にバットに当てたとしても、それはどん詰まりの打球になるような気がしていた。そして現に、今までも何度も宮本に何度抑えこまれた。
二人は世代はひと回り違うが、好敵手としてスポーツ報道でもよく持ち上がる。今シーズンの対戦は7打席。3勝4敗と、柳は宮本に対してやや負け越している。昨年も同様だった。
現在、試合は9回裏。柳の4打席目。今日はすでに2安打で、柳個人としては上場の成績ではある。
ランナーは二塁。ツーアウト。一点差。一打出てればサヨナラ勝ちもあり得るが、この打席でゲームセットにもなり得る。だがこの試合を勝てば、チームはクライマックスシリーズに参入できる。
この試合は落とせない。
(嫌な場面だぜ!ったく)
と思いながらも、柳はこのシチュエーションを演出してくれた野球の神に感謝していた。
柳独特の、バットを斜めに倒した構えを取る前に、彼はバットを一度高く掲げる仕草を見せる。それが子供たちにモノマネをされるのだが、実はこの動きは、柳が打席に立つ際、野球の神からの天啓のようなものを受け取るための、個人的な儀式だった。
彼はいつも以上に、バットを高く掲げ、天に向けて想いを馳せる。
ここで自分が打点を上げ、チームが勝利することは、自身のキャリアにとって大きな戦績となるだろう。野球の神が、それを後押ししてくれるだろう。
宮本は、柳が打席で構えを見せた時から、なぜか不思議な感覚に陥っていた。どこか、自分の意識が遠のき、この球場をまるで遠くから眺めているような気持ちだ。
重要な場面だ。このような緊張した場面、何度も経験しているが、こんな気分になったのは初めてだった。
3年前から、先発ローテーションから外れ、抑え投手になったが、むしろそれで宮本は圧倒的な結果を出し、チームに欠かせない存在として不動のものとなり、リーグを代表するクローザーとなり、オールスター戦も三年連続出場している。
一球目。
外角低めにスライダー。ギリギリポイントを狙い通り投げれたが、ヤナギはバットを振らなかった。ヤナギの1番苦手なコースをついたが、引っかからなかった。
(やはりアウトローで来たか…)
読み通りだ。そして宮本は一球目を必ず外してくるということも。
それにしても相変わらず抜群のコントロールだ。手を出さなかったが、見送った後にストライクだったかと、柳は一瞬息を呑んだ。
球場は双方の応援がクライマックスに向けて最大のボルテージだ。
しかし、静かだ。こんなに静かな気持ちは初めてのことかもしれないと、柳は思った。強い緊張感があるのに、とてもリラックスしている。大歓声で、審判の声も聞こえにくいのに、なぜか歓声が遠くに感じる。
それなのに、18.44mも離れているピッチャーマウンド上の宮本の息遣いを、はっきりと感じることができた。
二球目に入る。キャッチャーは内角高め。インハイを指示した。しかし宮本は首を軽く振る。そしてすぐにキャッチャーがサインを出す前にモーションに入った。
(そこじゃダメなんだ)
またロー(低め)だ。柳は内角高めに弱いとデータがあるが、今日の柳は内角の球で1打点を取ってるし、あたりの鋭いファール打球もあった。ヤツは内角はすでに克服しているにもかかわらず、その情報を放置し、あえてそこに誘い込んでいると宮本は考えている。
今回はストライクゾーンを狙う。先ほどより角度をつけたスライダーを宮本は投げる。
観客が固唾を飲む。騒がしい球場が静まり返る。そして自身の胸の内も静まり返る。
宮本はまるでスロー画像を見るように、自分がボールを投げ終わったフローの動きの中で、バッターの柳を観察する。バットの先から表情、つま先の角度まで同時に把握していた。
柳は一瞬、ほんの一瞬だが、タイミングが合わなかった。時速150キロのボールが飛び交うプロの世界では、このわずか0・1秒に満たない一瞬が命取りだ。
空振りだった。内角に来ると読んでいたが、予想が外れた。
(まさか、またアウト・ローかよ!)
柳は自身の豪快な空振りと、見事な宮本の投球に、潔く敗北を認めた。気持ちいいくらいに。
しかし、もちろんまだワンストライク、ワンボール。今の一球は見事にしてやられたが、次はそうはいかない。柳はグリップボックスを出て素振りをした。
(見事に引っかかったな)
宮本は思った。しかし今は上手く出し抜けたが、ここからは、自分の野球人生の経験をフルに注ぎ込み、自分の生き様を賭けたピッチングをしないとならないだろう。
☆
球場は相変わらずの大歓声だったが、二人には歓声が聞こえていなかった。宮本は柳の熱気とたぎる血の流れを感じていたし、柳は宮本の呼吸のリズムと、その大柄な体躯に秘められた敏捷性を、まるで自分のことのように感じていた。
ゾーン -聖域-。宮本はそれを確かに自分自身に感じ、認識していた。
似たような体験は何度かあったが、ここまで自分を強烈に客観視し、この現状を俯瞰できたのは初めてのことだった。
柳にとっては初めての経験で、自分の意識の変化に奇妙な感覚を覚えていたが、それよりもこの対戦を打ち勝つことへの渇望が、自身の洞察と、それを可能にするスイングに集中をしていた。
ただ、二人ともデジャブに近い、妙な“既視感”を感じていた。
もちろん、何度も対戦しているが、そういうことではない。見えている景色とか、状況を超えた、この緊迫したシチュエーションを、どこかで知っているような気がすると…。
三球目。宮本は決め球のフォークボールを、やや角度を甘く投げた。
宮本のフォークは落差が激しく、打者の目の前から消えるように見えるほどだ。
しかし、あえて甘い落ち方を狙った。もう宮本のフォークは打者やコーチ陣から研究されて尽くしているのだ。
宮本の狙いは、詰まらせて外野フライに打ち取ることだったが、柳は持ち前の反射神経なのか、低めに入った球を真芯にとらえた。しかし、打球は一塁線を鋭く切れるファールボールだった。
(危なかった…)
宮本は、まさかあのように強く打ち返されたことに驚いた。熱気と運動量で流れる汗とは違う種類の汗が、額をを伝ったのがわかった。
打者の柳にとっては、実は今の球は読み通りだった。
今シーズン、宮本は代名詞とも呼べる“消えるフォーク”を、あえて甘く投げてくることを知っていた。しかし球種や角度は読み通りだったにもかかわらず、打ち損ねたのは宮本の放ったボールの初速が今までにないくらい早く、伸びがあったのだ。それでタイミングが遅れてしまった。
これは柳にとって屈辱的とも言える出来事だった。そして宮本という投手への畏怖の念すら感じた。
(なんだ、今の球は…)
物理法則に反しているようなボールだった。腕の振り下ろす速度や角度と、球速が明らかにアンバランスであり、中盤で速度が増したかのような気がした。
これでツーストライク。柳は追い詰められた。会場はますますボルテージが高まり、双方のチームメイトもベンチから声を上げている。
しかし、二人には聞こえない。二人とも、ますます自身の内的な世界に意識が落ち、対戦相手しか見えなかった。ボールやバットすら、もはや彼らの体の一部となっていた。
宮本はキャッチャーからの返球を受け取ると、三塁側の低い位置に、月が出ていることに気づいた。満月だった。こんな緊張した場面にもかかわらず、月を見て美しいと、宮本は思った。
「このような美しい月に見守られ、生涯を終えるのならば後悔もあるまいな!宮本殿!」
池の横に堂々たる体躯で、剣を下段に構えた宮本伊織に対して、柳生十兵衛は大声で言った。
しかし、それは十兵衛自身が伊織の気に飲まれぬように、肚から声を出して、気合を高めていたのだ。
それはもちろん、伊織にはわかっていた。そして、この言葉のやりとりを、どこか楽しんでいる自分に驚きつつ、
「ほう、まだ修羅の道を行くか。そのまま進めば、今宵お主の血が、池に映る月を覆い隠すであろう」
そう答える。伊織は答えながらも、剣先を合わせるかのように言葉を放ち、かつそれを愉快に感じていた。
「ぬかせ!」
十兵衛は笑みを浮かべながら言ったが、すでに彼の肩口と左腕からは血が流れていた。
宮本武蔵の一番弟子である伊織。戦の世が終わり、伊織は「活人の剣」などとやわなことを抜かすが、その腕前はやはり当代一にふさわしい…。
(相手にとって、不服なし)
十兵衛はこの出会いを天に感謝した。いつもそうするように、まるで天から降り注ぐ見えない雷を刀身に落とすかのように、一度剣を高く掲げ、夜空に向けた。
徳川家の剣術指南役という、名誉ある立場を父の柳生宗矩から期待されながらも、そのような偽善とお遊びのチャンバラに付き合えぬと、十兵衛は剣の道に生きる武者修行に出て、名のある剣豪を片っ端から屠ってきた。
そして、ついに噂に名高い、小倉藩の宮本伊織と相対するに至った。
もちろん、向こうも立場がある。十兵衛の出した果たし合いの申し出は断られた。そしてそれは予想の範疇だった。
なので伊織が数名の共を連れて外出の織りを願い、深夜に待ち伏せしてまでの強硬手段だった。
共の者たちも手練れだったが、即座に一人、首元を切り裂き絶命させ、次の一人に切り掛かったが、そこで伊織が割って入り、刀を振り下ろそうとする十兵衛の腕を素手で止めた。
そして「お主を止めることはできんな。ならば静かな場所で」と、こうして近くの池の辺りへ連れてこられた。共の者は帰らせた。
いざ勝負となったが、さすが宮本伊織。柳生十兵衛の、甲冑さえも切り裂く強烈な剣撃を受け流し、鋭い太刀を放つ。
だが、途中から双方動けず、睨み合いになった。そこで、池に映る月を見つめ、二人とも思わずふっと笑ってしまった。
(殺し合いの最中だというのに…)
伊織自身、不思議な気持ちであった。実はこのような斬り合いは、人生でも数度しかない。確かに腕前は師である宮本武蔵から認められていたが、こと実戦においては、師のそれと比べると圧倒的に経験は少ないのである。
しかも、相手はあの噂に名高い羅刹の剣士、柳生十兵衛。まだ若く、血気盛んであるが、幼い頃より、骨身や血の一滴に至るまで、柳生の剣術の髄を叩き込まれている。
(水月)
師匠は言っていた。水に映る月のように、腹の力を抜けと。そうすると相手の心が映る。それはすなわち、相手の動きが見えるのだと。そうすれば、いかなる相手にも負けることはなしと。
だが、自身の心が戸惑い、水を揺らすのであれば月は見えぬ。朧げになり、やがて形を留めなくなる。そうなると相手に切られるだろうと。
伊織はただただ、自らの呼吸と共に、丹田に気を据えて、十兵衛の燃えるような気迫と一定の距離を置いていた。
(必殺の間合い)
十兵衛はそれを天性の勘で掴んでいた。いや、幾度と重ねた斬り合いの中で、それはますます磨かれていた。
(あと半歩で、間合いだ)
しかし、それは伊織もわかっている、ということを十兵衛は悟った。こちらの動きがすべて知られているのだ。動いた時には、すでに動いている。現に今、完全な伊織の間合いにもかかわらず、彼は動かない。だが、間合いの中で動くものがあれば、即座にあの長剣が大蛇のように放たれるだろう。
呼吸は読まれぬようにするのがこのような死地における鉄則だが、お互い、相手の呼吸は手に取るように理解できた。そして心の臓の拍すら明確に感じていた。不思議なことに、それは二人で全く同期し、重なっていた。
☆
柳はピッチャーの宮本が、すぐ近くにいるような気がした。一歩踏み込み、このバットを伸ばせば、届きそうなほどに。
そのせいか、宮本が大きく見える。一人の人物というより、一枚の壁のように、自分の前に立ちはだかる。
柳は唾を飲み込むことすらできない。動けない。宮本は片足を投手板に乗せたまま、じっと動かない。キャッチャーのサインを見極めているだろうが、首すらうごかさず、柳の姿を見つめている。
(見られている)
柳はそう思った。見られているのは、自分の心の中までも見透かされているということを理解した。しかしそれは同時に宮本の心が見えていることでもあった。
剣を持ち、水面に映る満月の前で、生と死の境を跨ごうとしている。この境を越えねば、勝つことも、生き残ることもできない。
どちらが先に、この線を越えるか? どちらかが越えるしかない。痺れを切らして動くのか、あえて先の手を繰り出すか。
(はて…以前も、こんなことがあったような…)
伊織はふとそんなことを思ったが、もちろん十兵衛に会うのはこれが初めてだ。すぐにそのような妄想を振り払い、剣先をほんの僅かに上に向けた。
宮本がついに動いた。柳は乾いていた。汗はひいていたし、口の中も乾いていた。大気中のすべての湿度が、空気の動きを伝わって感じられた。
十兵衛は伊織が剣先をほんの僅かに上に向けたと同時に、軸足のつま先に重心がかかるのを察知した。
考えていては遅い。考える前に、十兵衛は大きめに左に踏み込みながら、袈裟に構えた刀を、伊織が突きをしてくるであろう腕に位置に素早く打ち込んだ。
デッドボールギリギリから、内角低めに食い込むようなスライダーを宮本は投げた。実はフォークボールよりも、この頃はこちらが必殺のボールだったが、このような切羽詰まった時にしかこの球は投げない。研究されたくないからだ。
しかし、宮本も考えたわけではない。常に冷静で、駆け引きの天才、頭脳派と呼ばれてきた宮本が、ほとんど何も考えずにモーションに入った。自分の体でないような感覚だった。
柳は野生的な勘で配球を読むことに関して、天才的とも言えたが、この時は不思議とそのような読みを一切していなかったし、来た球を打つというとてもシンプルな原理に立ち返っていた。そして自分はその球を打てると。
球が放たれた。自分の肘元に迫ってくるようなボールだったが、十兵衛はそのボールを恐れずに、軌道上を描くであろう流れに向けて剣を振った。
☆
「放送席放送席!ヒーローインタビュー! 今回は見事、サヨナラ本塁打を打った、柳選手に来ていただきました! どうですか、今のお気持ちは?」
「…ええと、そうですね、なんというか、自分で打った気がしないと言うか…」
「え? どういうことですか?」
宮本は控室で、そんな柳のヒーローインタビューを聞いていた。
(自分で打った気がしない?)
宮本は肩を揉みほぐしながら、その発言について考えた。ヒーローインタビューに慣れている柳らしくない、なんだか切れ味の悪い解答だった。
そして宮本自身も、自分で最後は自分で投げた気がしないのと、なぜだろう…。まるで柳が月明かりの下で刀を構えたサムライのように見えたのだが…。
「宮本さん!お疲れ様です! 気落とさないでください!俺たちがもっと点取れなかったのが原因です」
若手の選手がそんなことを言ってきた。
「ああ、ありがとう」と答えたが、実はさほど気にしてない自分がいる。
同僚からも「名勝負だった」「惜しかったな」と、落ち込んでいるだろう宮本への慰めの声をもらったが、宮本は今の勝負に満足していた。
「…バットが折れながらのホームランでしたね。感動しました。手応えはどうでしたか?」
「いや、正直、今回もやられたって思ったんです。でも、思い切り振り抜いて引っ張りました。ギリギリでしたね」
「今回も?」
「ええ…。前は僕は一命を取り止めましたが…、あれ? どういうことだ…」
「え…ええと、前回の試合に引き続き、ということですかね?」
「は、はい…。そうですね。ははは…、なんか疲れてるみたいですね」
「お疲れ様のところありがとうございます。ええと、とにかく素晴らしい勝負でした。対戦相手の宮本投手。今シーズン何度も対戦していますもんね」
「…ええ、彼は、宮本さんは、なんというか…、まるで、腕を振り下ろす姿が、まるで自分が真っ二つに斬られるような、そんな緊迫感というか…」
「き、斬られる?」
「いや、その、まあ、サムライだなと…。彼はサムライジャパンのエースですからね」
「はぁ…」
「…」
宮本は立ち上がり、グラブをもってロッカーに向かった。インタビューの音声が遠ざかっていくのを耳で追いながら、夜空の満月がぽっかりと、それを聞いてるような気がした。
終わり
お知らせ
6月23日(日) 瞑想“力”を高めるための、瞑想の会
6月30日(日) 静寂の会 満席
7月21日。「目覚め=Awakening」東京に引き続き、大阪でも。