スサノオと縄文の、不思議な夢

こちらの記事の続きのような感じです。

実は、不思議な話はこれだけじゃないんです。

夜、ホテルで寝ましたが、おかしな夢ばかり見て、あまり熟睡できなかった。その夢で、なんとも不思議な世界へ迷い込んだ。かつて「スサノオ」と呼ばれた男のビジョンを見た。

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そこが「日本」だということはわかる。ただ「日本」という名称はない。国家としての意識はない。なぜなら外国、もない。国境もない。あるのは山河と、人と動物たち。おそらくは「縄文時代」と呼ばれる世界のビジョンだと思う。「不思議な100物語」でも、縄文時代のビジョンを信州安曇野で見た話があるが、今回はもっと新しい縄文時代。おそらく、我々が習った「弥生時代」という呼ばれる時代に近い時代背景だ。

集落があり、そこで人々は狩猟などを中心に、豊かに、そしてとても平和に暮らしていた。彼らに「所有」という概念が希薄だった。かつてのネイティブ・アメリカンやアボリジニのように、個人所有ではなく、すべてを「共有(シェア)」している世界。まして、人が「土地」や「命」を奪ったり、所有するという発想すらなかった。だから、集落ごとで、争ったり、奪ったりする事もなかった。境目がなかった。意識の奥で、色んなものを共有していた。
そして彼らには「貯蓄」もなかった。その発想や概念すらなかった。なぜなら、必要なものは、必要な分だけ与えられる世界だったから。「足りなくなる」という恐れがない。なので未来のために溜める事、まして必要以上に溜め込むという必要性はない。

今思えば、そこはある種の桃源郷のような平和な世界だ。
自然と調和し、神々に祈り、先祖の祖霊を敬い、宇宙と一体化して生活していた。
それが縄文時代だ。人と草木と、山河と、ケモノたち。すべてが調和していた。神や祖霊を敬いこそすれど、神々すら渾然一体として、上下関係のない社会だった。
集落にはリーダー的人物は確かにいたが、それは決して現代社会や、男性的な主従関係を作るリーダーではなく、役割としての「まとめ役」や「決断する役」だった。そして、複合的な集落の、大きな長もいた。

しかし、その平和がついに壊れる時が来た。「所有する人々」が、やってきたのだ。どこから来たのか?おそらくは、大陸や、海を渡ってきた人々だろう。彼らは土地を所有し、そこで農耕をし、人の手を使って食物としての植物を育てた。馬という大きなケモノを奴隷のように扱い、それに乗り、人間関係には「持つ者」と「持たざる者」という上下関係がある社会を形成していた。人々は、本来神から与えられた役割ではなく、社会の上で「役に立つ」ことをしなければならず、その社会に歯向かうと、その集団の中で生活は許されなかった。

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