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救われたアート 1937年〜1947年

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第一章は、戦時中に自分たちの命をかけて、アートを守る勇士に身を転じた、美術館の館長達の物語。第二章は、戦時中にアートを守り、戦後は革新的な活動で美術館を新生したカッコイイ女性館長… もっと読む
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解放記念日

festa della Liberazione 今日4月25日はナチス軍とムソリーニ政権から解放された記念として、イタリアは祝日です。 美術館の作品を戦火から守り、ユダヤ人を迫害から守った、ミラノのブレラ美術館の女館長フェルナンダ・ヴィットゲンスが投獄されて数日後だったことが思い出されます。 砲撃を受け瀕死の状態だったレオナルドダヴィンチ作の「最後の晩餐」も、彼女が救ったといっても過言ではありません 彼女の物語を改めてこちらにリンクします。

解放されたアートと勇士たち。 n.1 - 戦争前夜

ローマで開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」をもとに、美術館で鑑賞するのとは異なる、アートの歴史をご案内します。 これは、自分たちの命をかけて、アートを守る勇士に身を転じた、美術館の館長達の物語です。 高く積まれた砂袋。その奥にあるのは。 世界の至宝といっても過言ではない、レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐。 最後の晩餐が描かれている、サンタマリアグラツィア教会。戦後に再建されています。 1943年8月の連合軍によるミラノへの集中砲撃により、

解放されたアートと勇士たち。 n.2 - 開戦

ローマで開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」をもとに、美術館で鑑賞するのとは異なる、アートの歴史をご案内します。 これは、自分たちの命をかけて、アートを守る勇士に身を転じた、美術館の館長達の物語です。 ***** 1940年 マルケ州の美術館や芸術作品の責任者で、美術史家でもあるパスクアーレ・ロトンディの管理下のもとに集められた作品は、ウルビーノのドゥカーレ宮殿の地下に保管されるが、宮殿の周囲に多くの軍隊がいるのが気になる。 イタリア軍が武器庫

解放されたアートと勇士たち。 n.3 - 奇跡の木箱

ローマで開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」をもとに、美術館で鑑賞するのとは異なる、アートの歴史をご案内します。 これは、戦時中に自分たちの命をかけて、アートを守る勇士に身を転じた、美術館の館長達の物語です。 前回のあらすじ。 南イタリアからの作品を避難していたモンテカッシーノ修道院から、別の避難場所への道中に、ドイツ軍に停められ、ゲーリングの側近により選別された作品が運び去られてしまう。 ****** パスクアーレ・ロトンディ。 マルケ州の

解放されたアートと勇士たち。 n.4 - 砲撃をくぐり抜け車を走らせる。新たな救出作戦。

ローマで開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」をもとに、美術館で鑑賞するのとは異なる、アートの歴史をご案内します。 これは、戦時中に自分たちの命をかけて、アートを守る勇士に身を転じた、美術館の館長達の物語です。 ***** 朝日が昇る前の午前4時に、大学生になる娘をそっと起こした。さあ、わたしがいま言ったことを繰り返してごらん。 極秘任務なので、いまから行くルートを誰にも知られてはならない。万が一、自分になにか起きた時のために、娘に行き先だけを告げ

解放されたアートと勇士たち。 n.5 - ミラノ、ベニス、フィレンツェ、ローマの館長たち。

ローマで開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」をもとに、美術館で鑑賞するのとは異なる、アートの歴史をご案内します。 これは、戦時中に自分たちの命をかけて、アートを守る勇士に身を転じた、美術館の館長達の物語です。 ミラノ、ベニス、フィレンツェ、ローマ。 イタリア観光旅行の定番都市。この4都市も戦争を回避することはできなかった。 ミラノ 女性初のブレラ美術館館長。ハンガリー出身の母親を持つ、フェランダ・ヴィトゲンス。 大学で美術史を学び優秀な成績を収

解放されたアートと勇士たち。 n.6 - イタリアの無名の英雄たち。

ローマで開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」をもとに、美術館で鑑賞するのとは異なる、アートの歴史をご案内します。 これは、戦時中に自分たちの命をかけて、アートを守る勇士に身を転じた、美術館の館長達の物語です。 イタリアを代表する都市、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ。この4都市以外の館長達も、必死に作品を救出しようとする。 トリノ 「ジェット機のノエミ」という異名を持つ、トリノのサバウダ美術館の女性館長ノエミ・ガブリエッリ。トリノから約

解放されたアートと勇士たち。 n.7 - もうひとりの英雄と、戦後の勇士たち。

ローマで開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」をもとに、美術館で鑑賞するのとは異なる、アートの歴史をご案内します。 これは、戦時中に自分たちの命をかけて、アートを守る勇士に身を転じた、美術館の館長達の物語です。 ***** もうひとりの英雄 イギリス人のアントニー・クラーク。 1944年。彼は、ドイツ軍が駐留している、トスカーナ地方サンセポルクロ街に爆弾を投下する任務を受けていた。 爆弾を仕掛け、あとは発火するのみ。 作業前から、ずっと気にな

アートと生きた、女性の戦士たち。ミラノ編 n.1。 フェルナンダ・ヴィットゲンス。

***** 順風満帆のフェルナンダフェルナンダ・ヴィットゲンス。1903年4月生まれ。父親がオーストリアの血を、母親がハンガリーの血を引いているので、ヴィットゲンスという姓を持つが、フェルナンダは、生粋のミラノ人である。 父親アドルフォはミラノの名門パリーニ高等学校で文学と哲学の教授をしている。7人の子供に恵まれたヴィットゲンス家では、週末になると家族全員で、ミラノの美術館巡りを楽しんでいた。 本物の素晴らしい作品を毎週のように鑑賞していた幼い頃の体験が、フェルナンダの

アートと生きた、女性の戦士たち。ミラノ編 n.2。 女性館長の誕生。

ファシズム台頭フェルナンダ・ヴィットゲンスが、ブレラ美術館でモディリアーニ館長の右腕として活動しはじめた1930年代。 この時代のイタリアは、ファシズムが台頭しており、ファシズムに反対する思想、政治姿勢、抵抗運動を行う反ファシズムは社会から除外される。 1935年。モディリアーニ館長は、反ファシズムを取る立場から館長の地位を突然解任され、人里離れた僻地の美術館へと移動させられる。 追い討ちをかけるように、1938年には人種法と呼ばれるレッジェ・ラッツィアーリ(Legge

アートと生きた、女性の戦士たち。ミラノ編 n.3。 守ること。

芸術を守り、人も守る。 エットーレ・モディリアーニ館長がユダヤ人迫害を受けた時、フェルナンダは署名を集めたり、ファシスト党に近い知人に相談し、なんとか迫害を回避しようと努めたが、無駄に終わっていた。 フェルナンダの大学時代の恩師、パオロ・ダンコーナ(Paolo D'Ancona)教授を覚えているだろうか。彼もまたユダヤ人であり、迫害され、隠れ家で身を潜めている。 フェルナンダは、イタリアの美を守るだけでなく、レジスタンスと協力し、迫害されたユダヤ人のために偽造パスポート

アートと生きた、女性の戦士たち。ミラノ編 n.4。 服役
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フェルナンダと刑務所。 フェルナンダはその場で拘束される。警察はアパートを隅々まで家宅捜査するが、家族に伝わる古い家具の隠し扉に慎重に隠していた、偽造パスポートを作成する機械や、専用の白紙などは発見されなかった。 一方、アデレ・カッペッリ・ヴェーニの別荘からは、証拠となるものがすべて見つかり、トレソルディー姉妹は逃亡前のユダヤ家族を匿っていたところを捕まってしまった。 さらに、証人までいる。あの、ドイツ出身のユダヤ少年だ。彼が囮となり、フェルナンダをはじめとする、4人の

アートと生きた、女性の戦士たち。ミラノ編 n.5。 立て直し
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ブレラ美術館の再建。 長く厳しい迫害の時を経て、モディリアーニ元館長も戻ってきた。再び二人三脚でブレラ美術館の仕事をするようになった二人。 ブレラ美術館の再建は街の復興シンボルのひとつになります。 フェルナンダは復帰してすぐに、美術館の修復は緊急事項であり、直ちに着手しなければならないと書き記した文書を、文化庁へ送った。 彼女の斬新で革新的なアイデアは、のちにイタリアの美術館の展示方法に大きな影響を与えることになる。 もともと意思の強い物言いのはっきりしたフェルナン

アートと生きた、女性の戦士たち。ミラノ編 n.6。 レオナルドとミケランジェロ
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スカーラ劇場 明るく灯された劇場に吸い寄せられるように、家族連れ、カップル、友達同士、仕事帰りのビジネスマン、作業を終えた職人など、さまざまな人が広場に集まってくる。 劇場では、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮で、明るく軽く華やかなロッシーニの「どろぼうかささぎ」の序曲が劇場に鳴り響く。 1943年の爆撃からわずか3年後の1946年5月11日に、異例の速さでスカーラ劇場が柿落としをする。まだ倒壊している建物がそこら中にある環境にあり、ミラノ人は一筋の光を感じたことだろう