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喜びも悲しびも みんな生きたい

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口には出せなかったけれど  心が折れそうな危うさの中で 私たちは 同じ風景を眺めた 青い海を見ているの?  白いカモメを眺めているの?  あの日 ここに私たちがいた  そのこと…
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#京都

京都、 絵に描きたい情景 。

京都の四季は美しい。 過ぎた日々を思い出すと、 切なくて、恋しくて。 じわーーーーーっと。 青い墨が手漉きの和紙に沁み込んでゆくように ゆっくりと、静かに私の気持ちが満ちてゆく。 そんな情感を、旅人の私は、 いつか絵に残したいと思っている。 第一景) 雨瀟瀟 初回のテーマは「雨」です。 荷風の作品に「雨瀟瀟」と云うのがあると知った。 ここでの「瀟瀟」とは、静かに寂しげに雨が降りつづく様に近く、 秋の長雨、「しとしと」ということばが似合う。 一方で、「瀟

黒侘助

モラトリアムな季節 アプローチの脇に侘助椿を植えたのはいつ頃だったろう。 そう言えば昔、通っていた大学の、かつての市電通りを挟んで西側に、「わびすけ」という名の薄暗い喫茶店があった。 授業をサボってはよく足を運んだ場所だった。 入り口横の大きめの窓には町屋の雰囲気が漂う格子が取り付けられていた。 ちょうど店の前には市電の停車場があって、窓からは学生たちが頻回に乗り降りする光景が見えた。 私は窓辺の席に座って、訪ね来ぬ友を待つように、行き交う学生たちのシルエットを眺

いのちを想う。

目の前に迫る危機 失われゆく命 生まれ来る命 命の儚さ尊さを想う。 そして魂の救いをねがう。 『蓮蕾を拾う』 阿弥陀さんの指がそっと触れた その先に 輝くいのち。 今年ももうすぐ 3.11がやって来る。

春に遊ぶ ー電電・疾疾ー

私は京都が大好きです。 この三年の歳月、 コロナの雪解けを待ち焦がれて、 漸く都に春を叫ぶ時が来た、 来たと思いたい。 待ち望んだ春の到来に歓喜して、マスクを外した守護神童子に 京都の空を乱舞してもらいましょう。 いざ !! 一番手は叡山(比叡山)の上に遊ぶ 雷神童子 「春だ春だ、ピカゴロ電電 電電」 二番手は如意ヶ嶽(大文字山)の上に舞う風神童子 「春一番、二番も次も疾疾 疾疾」 京都建仁寺にある国宝、宗達の「風神雷神図」が好きです。 何度も見に出かけました

青く滲む 「しみ」に極楽浄土を見た

左右対称のインクの「《し》沁み」を応用した心理テストがある。 図版が何に見えるか、何を想像するか 、表現した内容を分析することで、人の思考過程やその病理を解釈する人格テストである。 実は昔、そのテストを私は受けた。 大学生の時であった。心理学専攻の院生が修士論文や博士論文を執筆するために行う実験の被検者として。 実験に協力すると自身の履修科目の出席日数にポイントが還元される。催眠療法のそれになったこともあった。 今思えば、モラトリアムで不真面目な学生だった(と思う)

いつの日か、きっとまためぐり逢える。

大切な「人」、大切な「もの」たちとの別れは 私たちに深い哀しみを与えます。 ひとりぼっちでいることが こんなに辛くて寂しいものであるとは思いもしなかった。 「残されたものはもう何もないんだ」と、 膝を抱えてうずくまっていた私に 君の懐かしい声が聞こえてきたんだ。                    「懐かしいことば・眩しい光」 「いつの日か、きっとまためぐり逢える」 君が教えてくれた 君からのギフト。                          道

二十年目の貼替え

写真(↑)は私の好きな寺院の障子です。 泉涌寺の塔頭雲龍院の雪見障子です。 私の京都寺社巡りのきっかけを作ってくれた景色なんです。 四角い小さな窓から、椿、灯籠、紅葉、そして松が見え、4つの宇宙が織りなす四季折々の風情を堪能することができます。 私はシンシンと雪が降って、手漉き和紙の白さが一段と増す寒中がやっぱり一番好きです。 元来、私は障子を通過する柔らかな光に包まれたちょっと暗めの空間に身を置いて、静寂を味わうのが好きでした。そこに伽羅のお香が漂ってくればパ

蝉の産声を聞いた(!?) 耳鳴りな日々。

うっとこの旦那はん 二十数年来 耳鳴りに往生したはりますねん。 ちょうど附属病院で仕事しはるようになって 暫くしての頃からでおすねん。 右の耳から始まって 今では両方で鳴ってるて言うたはります。  どないしはったんやろ。 「えらい時もあったぁ」言うたはりました。 なんでもシンと静まり返った夜分がそうらしいのどす。 うちらには ようわからへんのどすけど、 気にし過ぎて気ぃ狂いそうになってしまう時もあるそうどすなぁ。 耳鳴りは「耳の鐘」とか言うのやそうどすけど