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濱田滋郎[著]/高瀬友孝[写真]『約束の地、アンダルシア──スペインの歴史・風土・芸術を旅する』〜第1話「人は生きるためにアンダルシアを選んだ」


▲見出し写真:ムスリム統治時代の街並みを今も残すグラナダのアルバイシン地区(写真:高瀬友孝)

※2020年4月15日発売の新刊『約束の地、アンダルシア──スペインの歴史・風土・芸術を旅する』より第1話を公開します。本書の詳細は https://artespublishing.com/shop/books/86559-221-4/ をご覧ください。


 アンダルシア。
 語源については後で触れる機会が来るとして、なんと響きの良い地名なのだろうとあらためて思う。
 アン・ダ・ル・シ・ア、An-da-lu-cí-a……。
 親指から順に、5本の指を折りながら、5つの音節を繰り返してみる。親指、人差指と開放的な〈a〉の音が続いた後、中指で、重味のある〈u〉音に変わる。アクセントのある〈í〉音がやや動きの鈍い薬指にあたるのは、ほかよりもわずかに時間が伸びるようで、好都合だ。締めくくりの小指で、明るい〈a〉音が短く戻ってくる。なるほど、こんな「起承転結」が秘められているために、快く響く名前なのかもしれない。

◎豊かな自然条件

 アンダルシアは、スペインの南、国土全面積の17パーセント強、つまり約6分の1を占める土地である。
 日本の国土面積に比べれば、4分の1と5分の1の中間ぐらいだろうか。けっして、そんなに広大な土地ではない。だが、この土地こそ、ひとつの「選ばれた処(ところ)」なのである。どうしてそうであるのか、まず、手短かに述べてみよう。
 一に、位置。ユーラシア大陸の最も西に張り出したイベリア半島は、狭い海峡を隔ててすぐ南のアフリカ大陸に臨んでいる。またいうまでもなく、古来エジプト、ギリシャ、ローマなど、その沿岸に文明の基地をはぐくんだ地中海の西の区切りに位置している。この事実は、古代このかた、東西にわたる幾多の種族、幾多の文化が、ここに蓄積することを助けた。
 二に、気候。スペイン、とりわけ南のアンダルシアは、ヨーロッパの中では最も温暖な、人間の住みやすい気候を持っている。処により盛夏の気温が40度を超えることも普通、といえばいかにも暑すぎるようだが、実際には湿度の低さから、想像するよりはしのぎやすい。夏の昼下がりも日陰にさえいればよい。それよりも、山岳地帯を除いてはめったに雪も降らず、身にしみるほどの寒風もほとんど吹かず、路地に咲く花も絶えない冬の優しさがありがたい。雨が少なく、文字どおり抜けるように青い空のもとに生きる幸せは、住む人の心を豊かにする。先に述べた地理上の条件に加え、この快適な気候が、多くの種族を、ここアンダルシアにひきつける要因となった。加えて、この土地に火山脈は通っておらず、地震もごく稀にしかない。季節的な台風の害もない。
 三に、自然の多彩さ。世界地図を眺め直してみても、この程度の限られた面積の中に、自然のさまざまな状況、言い替えればいろいろな風景が、これほど見事に、至れり尽くせりの形で収まっている土地は少ないであろう。

◎多彩な地勢と景観

 まず、海とそのほとり。しかも、長い海岸線は中央より西寄りにあるジブラルタル海峡を境に、外海の大西洋に向いたそれと、内海の地中海に向いたそれとに分けられる。
 次に、山と高地。アンダルシアは、北に隣り合うスペインの中央高原、すなわち首都マドリードを中心とする中心地帯カスティージャと、ひとつの長い山脈をもって仕切られている。この山脈、アンダルシアから見れば北方にある自然の塀が、シエラ・モレナである。最高地点こそ1323メートルとわりあいに低いが、充分に長く、厚い山並みで、かつては自然の要塞の役も務めた。この山脈があるために、中央のカスティージャ高原から見たとき、アンダルシアは別天地をなしているのだ、といっていい。たとえばマドリードからバスでずっと国道を南下していき、シエラ・モレナの要衝であるデスペニャペロス──「犬ころがし」──の峠を過ぎると、車窓の風景が一変するのに気づく。目にふれる植物の姿が、どう見ても、いかにも南国風に変わるのだ。
 シエラ・モレナはしかし、山としての高さでは、アンダルシアの東南部に位置するシエラ・ネバダに、とてもかなわない。シエラ・モレナが「褐色の山脈」を意味するのに対して、シエラ・ネバダは「雪を頂く山脈」の意味。その名のとおり、年によっては真夏にさえ消えることのない根雪が、この山脈の頂を覆っている。最高峰のムラセン山は標高3481メートル。富士山よりはいくらか低いが、充分、アルピニストたちの好目標となる高さである。アンダルシアの東部には、シエラ・ネバダほどの高さには至らずとも、たとえばシエラ・デ・セグラなど、2000メートル前後の峰々を抱く大規模な山塊もあって、海岸を除いてはおおむね山がちな一帯だといえる。

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▲年間を通して頂を白く染めるシエラ・ネバダ山脈(写真:高瀬友孝)

 そして、河と、その周囲の平野。アンダルシアの自然と人間の文化に活力と、計り知れぬ恩恵を与えてきた大動脈が、東部の山峡に発してこの土地を横断する大河グアダルキビールである。シエラ・モレナと東部山塊の間を悠々と流れるこの河は、何百キロメートルの歩みのうちに、左右から来る支流の水も集めながら、しだいに川幅を広げていく。同時に、その周囲の平野も広がっていく。
 グアダルキビールのほとりには、やや上流のコルドバ、下流のセビージャという、アンダルシア固有の文化をはぐくんだ重要な都会が──ほかの中小の町々とともに──生まれた。後者、セビージャは、カディス湾──大西洋──に注ぐ河口からグアダルキビールを約120キロメートルさかのぼったところに栄えてきた町だが、そんな内陸にもかかわらず、れっきとした港町である。すなわち、グアダルキビールの下流は、汽船が支障なく海から入ってこられるだけの広さと深さを持っているのだ。そして、セビージャのあたりまで来ると、周囲の平野はもはや、「沿岸地帯」という言葉はふさわしくないほどに、はるばると広がっている。この平原部を「バハ(低)・アンダルシア」、先に述べた山岳および高原地帯を「アルタ(高)・アンダルシア」と呼び分けることも普通におこなわれる。
 平野部の光景も、けっして一様ではなく変化がある。都会と田舎の違いはいうに及ばず、たとえばセビージャの南には「マリズマス」と呼ばれる広大な沼沢地があって野生動物や鳥類の豊富さから一部が自然公園となっているなど、土地柄はいろいろである。

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▲グアダルキビールはアンダルシアの歴史と文化に大きな影響をおよぼす (写真:高瀬友孝)


◎聖母マリアの恵みの土地

 以上のように眺めてくると、アンダルシアには、海、山、河、平野など一通りの自然が、人間にとっていかにも大きく豊かなものと感じられるだけの規模と、各地さまざまに変化する風景の多様さを伴いながら、実に満遍なく存在することがわかる。それは、神なり、ある超越的な力なりが楽しみながらつくり上げた、大きな箱庭のようなものである。
 もういうまでもないことと思うが、そのような自然環境の多彩さは、そこに住む人の暮らしを多様なものとし、文化の姿をも複雑にする。アンダルシアは古来、第一に農業の土地であるが、それに伴う牧畜業、海岸部では漁業、近代以降しだいに盛んになってきた工業なども無視できない。もちろんこんにちの都市部では、より近代的な職業につく人びとも多い。鉱物資源といえば、スペイン愛好者やフラメンコ・ファンにはアンダルシア東部、山岳地帯の鉱山唄であるタランタの調べがすぐに連想されることだろう。だが、実際には、アンダルシアの鉱脈はけっして東にのみ片寄っているわけではなく、北部シエラ・モレナ各地の鉛、西部ウエルバ地方の銅なども、昔からよく知られたものだった。工業に関してはそんなに盛んとはいえず、林業も樹木をはぐくむ雨の少なさからとても主要産業にはなりえない土地柄ではあるが、農産物、家畜、漁獲、鉱物などを考えると、地球上の他の土地に照らして、アンダルシアは充分に豊かな資源を持つ一地方にほかならない。たしかに東部の山岳地方には、雨の少なさから一種のステップ状態を示す土地もあるが、全体からすれば「不毛の」といった形容詞はまったくふさわしくない。キリスト教の普及の後、アンダルシアを指して「聖母マリアの恵みの土地」と呼ぶ習慣が、いつからともなく生まれた。キリストの峻厳さよりは、母なるマリアの優しさによって永遠に潤される土地。内に住む人びとも、外側から眺める人びとも、アンダルシアをそのように見てきたのである。

◎それぞれの顔を持つ8つの県

 アンダルシアには、大きさがほぼそろっていて、公平に地積が分けられた感じのする8つの県がある。ここでは西のほうからあげていってみよう。
 まず、西方のグアディアナおよびチャンサ川を国境線としてポルトガルと隣り合うウエルバ県。次に、内陸寄りのセビージャ県と、名高い港町カディスやシェリー・ワインの名所へレスがある海辺のカディス県。以上がいわば、「西アンダルシアの3県」である。
 ついで、内陸部のコルドバ県、南の地中海に面した、これまた良港として知られたマラガを持つマラガ県。これら2つが「中央アンダルシアの2県」である。
 さらに東へ行くと、内陸部のハエン県、観光都市としてあまりにも有名なグラナダを中心とし、内陸から海岸まで広く伸びているグラナダ県、そして最も東に位置し地中海への長い海岸線を持つアルメリア県。これら3つが「東アンダルシアの3県」だといえる。
 繰り返せば、西から東へ、ウエルバ、セビージャ、カディス、コルドバ、マラガ、ハエン、グラナダ、アルメリア。これら、同じひとつのアンダルシアのうちにありながら、自然のありかた、文化の背景によってそれぞれ微妙な相違を持つ8つの県が、各々の財産を持ちよることによって、アンダルシアの豊かな相貌を作りだしているのである。ちなみに、8つの県の名が、すべて、県庁所在地である行政上・文化上の中心都市と同一になっているのは、便利なことだ。

◎多民族の歴史の積み重ね

 今言った、8つの県、8つの都市の色合いを微妙に染め分けるものは、自然の環境もさることながら、それ以上に、人間の歴史の積み重ねであるといえよう。アンダルシアには、古来、どのような人びと、どのような種族が住みつき、それぞれの文化をもたらしたのだろうか。
 アンダルシアは、地球上で最も古く人間が住みかとした地方のひとつで、新石器時代、鉄器時代の人びとの暮らしの名残も、考古学研究者たちにより発見されている。その後、イベロ族と呼ばれるイベリア半島の先住民、古代において西アンダルシアに、たしかにひとつの文明を開いたタルテッソス人、やがて各地に訪れ植民地を築いたギリシャ人とローマ人、交易その他の目的でここへひんぱんにやってきたフェニキア人、カルタゴ人。あるいは中近東からはるばるやってきた人びと。
 そして中世に入ると、民族大移動の波とともに北方から移ってきたゲルマン諸族、やがて北アフリカを経て入ってきたイスラム教徒たち。彼らは少数のアラビア人を頭とする、北アフリカのベルベル族、あるいは彼らと東方人の混血の民だった。そして終わりに、最も遅くアンダルシアに入ってきながら、ひとつの重要な役割を担うことになった種族、ジプシー。
 以上の充分すぎるほど多彩な人種と文化に、時代とともに、アメリカ大陸からもたらされたものまでが加わる。以上のすべてを、それ自体豊かで多彩なアンダルシアの自然が包み込んだ。世界に唯一の「選ばれた処」が、ある「約束の地」がここに生まれないでどうしよう。

約束の地、アンダルシア
スペインの歴史・風土・芸術を旅する
濱田滋郎[著]/高瀬友孝[写真]
https://artespublishing.com/shop/books/86559-221-4/
定価:本体2800円[税別]

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A5判・並製・256頁(うちカラー112頁)
発売日 : 2020年4月15日
ISBN978-4-86559-221-4 C0070
ジャンル : 歴史/音楽/美術/紀行
ブックデザイン:桂川潤

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