音楽の力を未明の領域に探る──『音楽の未明からの思考』序論 野澤豊一
2021年12月22日発売の最新刊『音楽の未明からの思考』の序論を公開します。筆者は編者のひとり、富山大学の野澤豊一さんです。ここで簡潔明快に綴られている本書のコンセプト、成り立ち、16本収めた論考の紹介を読んで興味関心をそそられた方はぜひ書店へお出かけください。(アルテス鈴木)
音楽は私たちの社会でどのように力を持ちうるのだろうか? 本書はこの問いに、「ミュージッキング(musicking=音楽すること)」というキーワードを手がかりに思考する。いかにも手垢のついた「音楽の力」というフレーズを冒頭から持ち出すのには、しかしわけがある。人類はその誕生以来、常に歌い、奏で、踊ってきたが、それらの行為がどのように私たちを惹きつけて、自らもその一部になりたいと思わせるのかという問いは、未だ立てられてこなかったからである。本書に収められた諸論考は、さまざまな視点と事例から、この問いに迫る。
「ミュージッキング」とは、ニュージーランドに生まれて、のちに英国に渡った作曲家・音楽家・音楽教育者のクリストファー・スモール(1927-2011)による造語である。生前に刊行された三つの著作(Small 1977; 1987; 1998=スモール 2011)と、死後に編纂された一編のアンソロジー(Small 2016)は、音楽研究のみならず、音楽実践のあり方そのものをも大きく変革させる可能性をもつ。私の見立てでは、音楽が発揮する力のありかを探求するのに、これほど強力な思考・実践のツールはない。だが、提起されて三十年余りたったいまも、「まだそのポテンシャルが十分に発揮されていない」(スモール 2011、30)。この序論では、スモールの主張を解題しつつ、私たちがそのポテンシャルをどこまで引き出しうるかについて、現時点で私が考えているところを素描してみよう。
スモールが残した最後の著作『ミュージッキング—実演することと聴くことの意味』(スモール 2011、邦題は『ミュージッキング─音楽は〈行為〉である』)は、理解するのに少々注意が要る。ここでスモールは、表面的には、シンフォニー・コンサートが可能になる歴史的背景や舞台裏を詳細に描き出している。とりわけ、その産業としての側面、音楽家同士の競争、コンサートを取り巻く産業社会に特徴的なエートスなどについての鋭い指摘は、当の文化の住人にとっては批判とも受け取られた。そうしてクラシック界を「脱神話化」しつつ、シンフォニーのパフォーマンスを社会的・文化的な文脈のなかに正確に位置づけたのである。『ミュージッキング』のこの側面—「音楽の意味は音楽作品のなかで完結している」という、意味や価値の自律性に対する批判—は、「もぎりもローディーもミュージッキングしているのだ」というフレーズに象徴的に示された。
だが、すでに指摘されているように、芸術イデオロギーの相対化という作業自体は、民族音楽学や音楽社会学においてもすでになされてきたことであり、その点に目新しさはない。だから『ミュージッキング』の革新性は、むしろ「この世に「音楽music」などというモノは存在しない」という主張の方にあると考えるべきである。わかりやすいようでいて実のところあまり理解されていないこの主張を、スモールは「愛love」に喩えて巧みに説明した。私たちは、愛したり、愛されたり、愛し合ったりするという経験をもちうるが、「愛」はそれらの行為群のどこかにモノとして存在するわけではない。「愛」は、行為や経験の抽象物にすぎないからである。にもかかわらず、私たちは、抽象概念である「愛」を「愛する」という行為よりも先に存在していると考えがちだ(スモール 2011、18〜20)。
では、「愛」ではなく「音楽」の場合はどうか。たとえば、母親が子どもをあやす際のメロディアスな発話やリズミカルな運動、神輿や山車を動かすための掛け声や行列の巡行を囃す鳴り物のざわめき、憑依儀礼における音の賑々しさと激しい身体動作を想像してみよう。誰かに向けてことさら披露されるわけでもなく、はっきりと輪郭をもった音楽的な「作品」も存在しないこれらの場面で、人びとが「音楽を演奏している」と叙述することは、たしかに不自然である。なるほど、音楽学者であればそこから「音楽なるモノ」を抽出しようとするかもしれない。しかし、そうして文脈から対象を取り出すとき、私たちはえてして出来事を全体としてみる視点を置き去りにしがちだ。
この立場をここでは、音楽をめぐる「表象主義」と呼ぼう。音楽をめぐる表象主義とは、人間の営みから独立した表象ないし客体としての音楽が存在するという前提、およびそこから導き出される一連の制度や習慣を指す。レコードの発明以来の録音音楽に慣れきった、あるいは演奏家と聴衆の分離が当たり前の世界に住む私たちは、容易にこの表象主義に陥りがちである。だが、それにしたがえば、あらゆる音楽的行為は何らかの表象を再現する営みでしかなくなるだろう。そこにはまた、「芸術」「文化」「商品」といった尺度では測りえない、名もない人びとによるヴァナキュラーな営みとしての音楽や踊り(それらはしばしば、単なる娯楽や気ばらしとして行われる)の居場所はなさそうである。私たちがスモールの思想に音楽研究(さらに言えば音楽のあり方そのもの)をバージョンアップさせる可能性を感じるのは、音楽をめぐる表象主義を、スモールが回避することにかなりの程度成功しているためにほかならない。
私たちは、音楽=ダンス的な要素をふんだんに含んだやりとりが親密な絆(今川 2020、マロック+トレヴァーセン 2018)や地域的な一体感(Reily & Brucher 2018)を生み出すことを経験的に知っている。他方で、音楽が規律訓練型の身体を作り出してきたことも知っている(McNeill 1995)。音楽が共同性だけでなく(あるいはそのためにこそ)社会に分断を生み出すことも知っている(O’Connell & Castelo-Branco 2010)。だが、名詞形の「音楽」という概念に頼ってこれらの現象の謎を解き明かすことは原理的に不可能だ。というのも、「音楽」という表象は西洋近代の発明品にすぎないのであって、人類にとって何ら普遍的なものではないからである——これが私たちの採用するスモールの思想の核心にほかならない。
本書は、世界各地で営まれるミュージッキングの事例を取り上げる。だがその際、「地域」や「ジャンル」の特徴をことさらに強調することはしない。対象への愛や知識をひけらかすことで「異文化」や「文化的他者」を表象し、対象を細分化することは、時として分断を生み出すからである(「クラシック」、「ロック」、「民謡」といったジャンルの間にある溝は、愛好者だけでなく研究者同士の間にも存在する)。それに対して私たちが目指すのは、世界の様々な場所で営まれるミュージッキングを人と人、人とモノ、人と観念の「出会い」の場として把握し、そこからある種の普遍性や比較参照点を取り出し、音楽という概念を解体し、音楽の未明とでも呼びうる地平から思考を試みることである。それは、人びとの営みから「音楽」や「ダンス」をあえて抽出することなく、ミュージッキングの全体性をありのままに捉えることを意味する。
しかし、ここでひとつの疑問が生じる——ミュージッキングを直接に、ありのままに記述することなど、果たして可能なのだろうか? 実際、ミュージッキングは、対象化し、分析し、表象するという学術的な営みにとっては、厄介でさえある。私たちは、誰かが歌い、語り、奏で、踊るところを、そしてその場に(それを見聞きしている私たち自身をも含む)他の誰かが引き寄せられていく様を、確かに感知している。その一方で、その吸引力を描き出す術を、未だ手にしていないかのようなのだ。五線譜のような分析的フィルター——これも表象主義の産物のひとつであることは言うまでもない——とは別の道具立てが、ここでは必要になる。
ここでもう一度スモールの方法論を確かめよう。たしかにスモールは、演奏者と聴衆、楽譜とパフォーマンスという近代に特徴的な分離を批判するのに急ぎすぎたこともあって、ミュージッキング—すなわち音楽的出来事へのあらゆるタイプの参加—と演奏行為との区別を正確に吟味することを怠っている(Hesmondhalgh 2013, 89-91)。だが、「音楽」という表象を徹底的に疑うこの姿勢抜きに、シンフォニー・コンサートという場を可能にする物理的・経済的条件やイデオロギーを、これほど雄弁に描き出すことはできなかったはずだ。音楽やダンスのパフォーマンスを動詞形で把握する、あるいは出会いとしてのミュージッキングを描くということは、人間の活動を予定調和ではありえない、ダイナミックな過程として理解することである。そのさなかで人が音楽=ダンス的出来事に誘い込まれていくときに働いている力はいったい何なのだろうか。それは一見したところ「音楽」の形をしているかもしれない。だがそこに生気が宿るのは、背後に権力装置や呪術的パワーが働いているからに他ならないのであり、同時に人の営みが常に権力や呪術の網の目から逸脱しうるからだ。本書に収録された諸論考が描くのは、パフォーマンスという動態におけるそれらのせめぎ合いである。ミュージッキングのさなかに私たちが捉えたいと願う「純粋身ぶり」(山口 2014、144)は、逆説的ではあるが、「音楽」という概念を解体し、音楽の未明の領域へと踏み出したところで初めて姿を現すのだ。
さて、本書はスモールが提示した右の視点を基盤とするものだが、『ミュージッキング』に対するいくつかの批判を乗り越えて、その先に進むことも目論んでいる。第一の批判は、ミュージッキングの場において意味がパフォーマティヴに構築される様子をスモールが描ききっていないというものだ(中村 2013、57 :諏訪 2012、217)。スモールは作品に内在する意味を否定しつつ、ミュージッキングの意味はその都度変化するものだと主張する一方で、シンフォニー・コンサートという儀礼には産業社会のエートスを肯定するという不変の意味があると述べた(スモール 2010、257)。シンフォニー・コンサートほどにオルタナティヴな意味が産出されにくいミュージッキングは珍しいとしても、スモールが解体した「音楽」はクラシック文化のそれにとどまっているという批判はもっともである。多様な地域やジャンル、シーンといった具体的な事例を取り上げる本書は、この批判を乗り越えて「音楽」そのものが解体される地平を切り開くことを目指している。
特筆すべきもう一つの批判は、『ミュージッキング』で描かれる音楽の主体が人間に限定されがちだというものだ。この先には二つの具体的な問題が生じる。ひとつは、それにより西洋近代的な「主体/客体」という枠組みが保持されること、もう一つは非人間的なエージェンシーをミュージッキングの主体として積極的に評価できないということである(毛利 2017、20〜21)。本書では(とりわけ後半に所収された諸論考によって)この批判を乗り越えるべく、モノや言語、観念がどのようにミュージッキングを駆動させるのかについても描き出すことになるだろう。
本書の構成
あらかじめ録音された音源にアクセスしてそれを聴取することが音楽体験のデフォルトとなりつつある現在、あえて「ミュージッキング」という言葉を持ち出すことは時代錯誤と受け取られるかもしれない。だが、いま人類が直面している未知のウイルスとの闘いは、奇しくも、他者と時間と場所を共有しつつ音楽することのかけがえのなさを、私たちに改めて認識させる契機になった。本書の第Ⅰ部「あつまる・かさなる」の四つの論考は、いずれも、ミュージッキングが音楽よりも原初的だという視点から出発しつつ、そこからさらに踏み込んで、音楽することや踊ることの共同性と政治性を浮かび上がらせる。
第一章では西島千尋が、日本における音楽療法の現場を取り上げる。心身の障害を持つ人のために実施される音楽療法は、時に「セラピスト—クライエント」という非対称な関係性という医療の前提を超える機会をもたらす。西島は、そうした「立場からの浮遊」がセラピストをミュージッキングへと動機づけるのだという。続く第二章では輪島裕介が、日本のディスコ文化史からダンスのあり方の根本を問う。一九七〇年代の日本のディスコ黎明期には、アフロ系文化に由来する自由な踊りが理想とされつつも「振り付け」化されてゆくモメントが、すでに存在していた。そこで示唆されるのは、ダンスという参与的実践に、規律や同調圧力が背中合わせに入り込んでくるという傾向である。第三章で浮ヶ谷幸代が北海道浦河町にある精神障害をもつ当事者たちによる「音楽の時間」に着目するのも、先の二つの章と同じく、ミュージッキングの引き起こす共同性のためである。しかし浮ヶ谷は、そこからさらに踏み込んで、障がい者が家を建てるという行為とミュージッキングとのあいだに共通する「生きていること」を、連続したひとつの表現活動として捉え、考察する。第四章で、東アジアや東南アジアに広く分布する掛け合い歌を取り上げる梶丸岳は、「合唱」や「交唱(コール&レスポンス)」が一般的に「融合」としての参与を促すのに対して、掛け合い歌がそれらとは異なる空間を作り出すことを指摘する。それは、共同作業としてのミュージッキングから浮かび上がる「個」を前提とした社交空間である。
続く第Ⅱ部「まざる・とけあう」には、歌やダンスが、人びとを出会いの奔流に巻き込んでいく場面に着目した、四つの章を配置した。ミュージッキングに没頭するとき、私たちはそれを自らが行うものとしてではなく、ただ経験する。ミュージッキングは時として、個体のエージェンシーに還元しえない出来事を生み出す─あるいは、そうでなくてはならない。そこでは、歌う・踊る・奏でるという行為だけがあり、近代的な「主体」や「対象」が消失することすらありうる。
第五章で増野亜子は、インドネシア・バリ島の「行列音楽」について論じる。村のなかを練り歩くというミュージッキングには、舞台の向こう側とあちら側という関係とは違ったダイナミズムがある。にぎやかな音を立てながら場所を移動する村の行列には、演者と傍観者とのあいだにある垣根、あるいは宗教(ヒンドゥー教とイスラム教)の垣根を揺るがす可能性があるのだ。第六章を担当する井上淳生によると、日本の社交ダンス実践は、男女が「一つの塊」となって踊るために、「イチ、ニ、サン、シ」という「カウント」にしたがう。しかしこれは、ダンス教室やコンテストといった文脈と不可分な領域で進化してきたハビトゥスにすぎない。他方で井上は、教室的な文脈から離れたところで、人びとがカウントを媒介せずに音楽やペアダンサーと一体化することを探求していることも見逃さない。第七章では野澤豊一が、アメリカの黒人教会の礼拝における憑依ミュージッキングを描く。礼拝儀礼は、讃美歌やゴスペルといった楽曲だけでなく、それ以外の様々な楽器音やノイズ、さらには人びとの立てる「ざわめき」によってはじめて、満足のいくものになるのである。第八章を担当する矢野原佑史は、中央アフリカの「森の民」バカ社会の日常とミュージッキングとの地続き性を明らかにすることを試みる。ポリフォニー音楽で知られるバカだが、その基盤にあるのは、女たちのお喋りや物語りの場で参与者を一体にするコール・アンド・レスポンスである。矢野原は、そのようなバカの社会のことを、始終「グルーヴしている」ものとして描き出す。
本書の前半が、複数の人間の行為がひとつになった先に浮かび上がる、集合的な現象としてのミュージッキングをテーマとするのに対して、第Ⅲ部「つかう・つくる」は、パフォーマンスが対象化される局面や、ミュージッキングにおける「モノ」に着目する四つの論考を配置した。私たちは多くの場合、モノを利用してパフォーマンスを行うだけでなく、パフォーマンスの諸相を何らかの媒体に記録したり、その媒体を利用しつつ音楽を作ったりもする。そうして人間の周囲に配置されたモノがエージェンシーを発揮し、再び人間やパフォーマンスに影響を与えることがある。それは時に、人間の思惑と対立することすらあるのだ。
第九章では福岡正太が、民俗芸能の映像を記録し、アーカイブ化する実践について報告する。研究者による思惑とは別に、映像は単なる「継承のための記録」にとどまらない、現地の人びと同士の対話を生み出すきっかけにもなりうる。そうした、モノを手がかりとした対話もまた、ミュージッキングの一部なのである。第一〇章で武田俊輔が着目するのは、祭りの文脈に埋め込まれた囃子が脱文脈化する過程である。巡行する山車を「囃すもの」としてあった音は、戦後の都市化やサラリーマン化の状況のなかで、舞台の上にあげられ、五線譜に書き記された。しかし、祭りを生きる人びとは、そうした脱文脈化された「音楽」に違和感をおぼえもするのである。第一一章で大門碧が取り上げるのは、東アフリカ・ウガンダの首都カンパラで流行する、歌、踊り、コメディ、口パク芸が入り混じった大衆ショー「カリオキ」である。カリオキではパフォーマンスに先立って、上演演目がいったん文字に記されるのだが、ショーは常にそこから逸脱する。大門はそこに、アフリカ特有の「反文字」の傾向を読み取る。第一二章で伏木香織は、バリ・ガムランで使用される竹笛、スリンを取り上げる。近年、音程の揃えやすさや運指の容易さを実現すべく、人間の都合に合わせて「矯正」を加えられているスリンだが、状況次第で人間の演奏を左右する存在になりうる。そこにはスリンのエージェンシーが働いているのだ、と伏木は指摘する。
本書の末尾を飾るのは、音楽のパワーが言語化されていく諸相について論じた四つの論考を所収した、第Ⅳ部「おもう・かたる」である。私たちは、作品や作曲家、音楽的出来事に対する思いを言葉にして語るが、そうした言説空間はどのように構築されているのだろうか。あるいは、語るという活動がミュージッキングを触発する現場とは、どのようなものか。この視点から垣間見えるのは、パフォーマンスと言語が絡み合った場のダイナミクスであり、ポリティクスである。
第一三章で井手口彰典が取り上げるのは、スキャンダルとして報じられた、ひとつのゴーストライター事件である。この事件をめぐって交わされた諸言説を腑分けしながら、井手口は、現代日本社会に根強く残る、音楽へのロマンチックな眼差しを指摘する。その眼差しはまた、日本社会が「ミュージッキング」という概念を受容する足かせにもなりうる、という点からも注目に値する。第一四章では松平勇二が、南部アフリカ・ジンバブエにおける、音楽的才能の存在論について考察する。ジンバブエのショナ社会では、個人の成功や才能の背後に「霊」の存在が常に囁かれる。この超自然的存在のあり方を指摘する先で、松平は、才能や動機にまつわる人間中心主義という、近代の前提自体を疑問視する。第一五章で川瀬慈は、歌われることばがパフォーマンスを触発するダイナミクスを捉える。語りや歌は、書き記されたテキストとは別次元のマルチモーダルなイメージを喚起するが、私たちがそのイメージに誘われる時、ことばや歌は独自の生命をもつかのようだ。川瀬はそこに、「作者」や「歌い手」を超えた主体を見るのである。第一六章で青木深は、戦時中から戦後にかけて米軍将兵に人気のあった「支那の夜 China Nights」を取り上げて、歌をめぐる記憶について論じる。調査における対話やYouTubeの書き込みによって、忘れられていたものが呼び覚まされる様子を活写しながら、歌の周囲にあった「過去」が浮かび上がる瞬間が取り出される。
この小文を閉じるにあたって、編者のひとりとして本書に込めた野心のひとつを開陳しよう。音楽研究は、人文・社会科学の理論を流用することこそあれ、それらの分野に影響を与えることが極めて少なかった。音楽が私たちの社会で取るに足らないものと思われる理由のひとつも、おそらくそこにあるのだろう。だが、音楽研究のもつ最大の可能性は、まさにその事実に逆説的に表れている。
スモールと同じように、世界を「名詞」によってではなく「動詞」によってとらえ直そうと目論む人類学者にティム・インゴルドがいる。インゴルドは、学問的な言説が世界を対象化しようとする傾向に警鐘を鳴らし、彼が呼ぶところの「対象なき世界 world without object」というヴィジョンを構想する。そこで浮かび上がるのは、身体の身ぶりやマルチモーダルな感覚、人間関係とそれを作りだすパフォーマンス、感情である(インゴルド 2018、42〜47:2020、115〜119)。我田引水を承知でいうと、パフォーマンスそれ自体を捉えることを目指すミュージッキング研究が記述するのは、近代の学問から締め出されてきたものとしてインゴルドがリストアップするもの、すべてである。それが達成されれば、ミュージッキング研究は、人文・社会科学を刷新することができるだろう。さらに言えば、ミュージッキング研究は、学問のなかに音楽研究を正しく位置づけるだけでなく、学問を「音楽的に」あるいは「パフォーマティヴに」拡張させる契機とすらなりうる。
論理と科学の眼差しによるだけでなく、直感と霊感に導かれることも恐れずに叙述された本書の文章群から、私たちは新しい語り方を手にすることができるだろうか? 編者のひとりとして、私はその種がまかれたことを確信している。
注
1 この点に関しては、本書の元となる研究会(「おわりに」を参照)を構想してから現在に至るまでの間に、いくつかの文章を発表しているので、そちらも参照されたい(野澤 2013、2017、2021)。
2 表象主義批判の源流のひとつは、哲学者大森荘蔵による二元論批判である(大森 2015=1976)。また、人類学者の中谷和人は、芸術(とくに絵画)の生態学的な存在論を展開するなかで、芸術をめぐる表象主義とその批判を素描している(中谷 2013)。
3 ただし、在野の音楽教育者であったスモールにとって、ミュージッキングという造語が研究のためだけに提唱されたわけではないという点は考慮されるべきだ。スモールによれば、『ミュージッキング』は私たち自身が自らの音楽人生をよりよくコントロールできることを目指して書かれた(スモール 2011、37)。たしかに、シンフォニー・コンサートに体現される産業社会に息苦しさをおぼえる人びとにとって、その文化的網の目を可視化することは十分な意味をもちうる。
参考文献
今川恭子編(2020)『私たちに音楽がある理由(わけ)─音楽性の学際的探求』音楽之友社。
インゴルド、ティム(2018)『ライフ・オブ・ラインズ─線の生態人類学』筧菜奈子・島村幸忠・宇佐美達朗訳、フィルムアート社。
─(2020)『人類学とは何か』奥野克巳・宮崎幸子訳、亜紀書房。
大森荘蔵(2015=1976)『物と心』ちくま学芸文庫。
スモール、クリストファー(2011)『ミュージッキング─音楽は〈行為〉である』野澤豊一・西島千尋訳、水声社。
諏訪淳一郎(2012)『パフォーマンスの音楽人類学』勁草書房。
中谷和人(2013)「芸術のエコロジーにむけて─デンマークの障害者美術学校における絵画制作活動を事例に」『文化人類学』77(4)・544〜565。
中村美亜(2013)『音楽をひらく─アート・ケア・文化のトリロジー』水声社。
野澤豊一(2013)「音楽と身体の人類学に向けて」『文化資源学研究』第10号、95〜114。
────(2017)「ミュージッキング研究の挑戦—『音楽』のリアルな姿に迫るために」『民博通信』157、14〜15。
────(2021)「音楽と身体」河野哲也ほか編『顔身体学ハンドブック』309〜316、東京大学出版会。
マロック、スティーヴン+コルウィン・トレヴァーセン(2018)『絆の音楽性─つながりの基盤を求めて』根ケ山光一ほか監訳、音楽之友社。
毛利嘉孝(2017)「はじめに─ミュージッキング後に向けて」毛利嘉孝編『アフター・ミュージッキング─実践する音楽』9〜32。
山口昌男(2014=1971)『本の神話学』岩波原題文庫。
Hesmondhalgh, David. 2013. Why Music Matters. Wiley-Blackwell.
McNeill, William. 1995. Keeping Together in Time: Dance and Drill in Human History. Harvard University Press.
O’Connell, John Morgan & Salwa El-Shawan Castelo-Branco. 2010. Music and Conflict. University of Illinois Press.
Reily, Suzel A. & Katherine Brucher. 2018. The Routledge Companion to the Study of Local Musicking. Routledge.
Small, Christopher. 1977(1996). Music, Society, Education. Wesleyan University Press.
─. 1987. Music of the Common Tongue: Survival and Celebration in Afro-American Music. Wesleyan University Press.
─. 2016. Robert Walser (ed.) The Christopher Small Reader. Wesleyan University Press.
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