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最新刊『オペラがわかる101の質問』訳者あとがきを公開します

5月28日に発売する最新刊『オペラがわかる101の質問』の訳者、長木誠司さんによるあとがきを公開します──

訳者あとがき

 世に「オペラ入門書」というものは数多く存在する。ヨーロッパでもアメリカでも、そして今日ではアジアでも、そのなかの日本でも同じだ。そこにはとりあえず一通りのことが書かれている。オペラがどんなもので、そこでは何が演じられ、何が歌われ、いつどんな作曲家がいて、どんなオペラがあるかということから、どこに劇場があるか、どんな歌手がいたのかいるのか、そしてオペラを観に行くときにはどんな格好をすればよいのかとか、幕間での過ごし方はどうすればよいのかということまで含めて、セレブな世界への誘惑をちらつかせながら事細かに書かれているような入門書のことだ。
 本書もその意味では「入門書」のひとつである。しかしながら、ふつうのそれとはちょっと違っている。「オペラは上流階級のものなのだろうか?」とか「オペラは社会に役立っているのだろうか?」などという問いかけは、ふつうの入門者たちにはおよそ関係がない。それにもし、あの世間離れした空間に足を踏み入れて、そんな疑問をもったとしても、ちゃんとわかりやすく答えてくれるような入門書はどこにもなかった。「法律や契約は歌劇場の財政を護るのか」という疑問にしてもそうだ。こういうことは歌劇場の実務者が考えるべきことだから、入門者にかぎらず、コアな聴衆だっていちいち気にする必要はないからである。
 しかしながら、本書はそうした歌劇場を運営する上での舞台裏までのぞかせてくれる。いっけん華麗なオペラも、裏にまわればいろいろな問題をはらんでいるからだ。豪華な舞台は大いなる娯楽であると同時に、大いなる金食い虫である。破格の無駄づかい、偉大なる消尽、かつての王侯貴族の奔放で贅沢な趣味。国立の歌劇場があるけれど、ほんの一部の国民しか足を運ばないようなそんなものに税金を投入する必要があるのか? オペラを観る人も、あるいは観ない人も、いちどはそうした疑問をもったことがあるだろう。しかしながら、どのような理屈で現在の社会でもオペラが認知され肯定され、公的な補助を受ける意味をもっているのかということを、わかりやすく説明することは困難な作業でもある。
本書は、そうしたことも含めて、オペラの表も裏も、歴史も現在も、政治も文化も経済も、すべて網羅してこのヨーロッパ発祥、日本にもアジア全体にも根づいているオペラを「ていねいに」説明している。それはドイツのように、中小の街にも歌劇場がそなわっているような国家において、この文化を正統に位置づけ、保護する必要性を絶えず問われているなかだからこそ書かれうるものだ。そしてそれは、歌劇場をもつ他の多くの国々、ヨーロッパだけでなく、アメリカやアジアにも有効な議論であり、地域的にはそこまで念頭に入れて展開されている議論でもある。それは読んでいるうちにすぐ察せられることだろう。
 こういう書物は、いわゆる入門書の枠をはずれて、オペラについての蘊蓄を垂れるにはもってこいの資源ともいえる。もとより、ちょっとした物知り顔をできるような情報も網羅されているから。「ブーイングってのはかなり昔からあってさ」とか「ハイCってのはいついつから言われているんだよ」とか「批評家が知ったかぶって書いているようなヴェルディとワーグナーの対立なんて噓っぱちなのよ」とか「ホンモノの象が舞台に出てきたってのは都市伝説でね」とか「ワグネリアンがこだわるようなライトモティーフなんてワーグナー自身は否定的だったのよね」とか、嫌味なくさらりと言ってのけるのは楽しいかもしれない。そもそも「ライトモティーフ」的なものはオペラ・コミックが先取りしていたなどという知識を、いけすかない(?)ワグネリアンに授けてあげるのもいいだろうし、コンチェルタンテ(演奏会形式)上演を一方的に貶しめる「原理主義者」たちに、それがすでに長い歴史をもっていることを教えてあげるのも一興だ。
 そもそも、最初のオペラはなんだったのかということですら、著者はさすがオペラ研究の第一人者だけあって、歴史的な検証をふまえながらひじょうに詳細に、でもわかりやすく書いてくれている。最初のオペラの作曲者はペーリなのかカッチーニなのか、ごっちゃになっている入門書も多いが、本書はカヴァリエーリを含めて、誰が最初といえるのか、その場合はなにをもってそう言えるのかということから説き起こしている。問題の在処がクリアになって、また蘊蓄がひとつ増えてうれしくなる人もいるだろう(もっとも、最近ではマドリガーレの一部がもうすでにオペラ的であり、そっちにオリジンを見る人も出てきているのだが)。
 著者のデーリングご夫妻は、ともにオペラ研究(という、日本ではあまり馴染みのない分野)の第一人者であり、訳者の私は東京で一度、ライプツィヒで一度、オペラ研究の現場でおふたりともどもご一緒したことがある。ヨーロッパのオペラ研究は今日、地道な資料研究を下地にしながらも発見や再評価に暇がなく、それはあらゆる国、あらゆる時代の作曲家や作品にまでおよんでいる。それはまた複数残されている手稿譜やコピー譜を含めた異稿研究や台本研究、上演にかんする社会史・経済史的研究をとおしての作品校訂や出版、その影響史、そしてじっさいの上演や忘れられた作品の蘇演、その音声・映像記録化、データベース化を通して、ドラマトゥルギー研究や物語構造研究、演出(史)研究、文化研究、ジェンダー研究、ポスト・コロニアル研究から発声の生理学、身体運動学、脳科学まで、あらゆる分野を巻きこんだ大きな研究領域になっている。
 そうしたあらゆる研究のベースとなる楽譜や台本のみならず、音響資料や映像資料もデーリング氏の務めていたバイロイト大学の分館で、トゥルナウにある音楽劇研究所には豊富に収蔵されている。オペラ研究は、まず作品を大量に聴いて大量に観るところからしかはじまらない。それができないところに残念ながらオペラ研究はない。日本にいて研究する難しさはまずそこにあろう。
 オペラ上演のレパートリーも方法もどんどん更新され、刻一刻変わっているので、ヨーロッパの現場にいないと追いつくことすら難しいだろうが、そうした環境のなかで書かれた本書は、まさしく20世紀末から21世紀の今日にかけて歌劇場でじっさいにかかっている演目を横目で観ながらの入門書でもある。何人もの名カウンターテナーが競い合うバロック・オペラ、ベル・カントの流れを汲みつつも、貴族社会・市民社会の豪華さを取り戻しながら次々と蘇演されていくマイアベーアの諸作品、ふたたび盛んになった現代オペラ創作等々、いまオペラの現場で何が生じているか、何が人気なのかということがよくわかる問いの立て方であり、答えの仕方である箇所がいくつもある。
 「金食い虫」のオペラは、今日その上演を経営面から考えるうえで、政治的・経済的な問題と不断に接している。どの歌劇場も近年主たる戦略にしているスポンサー制についてもわかりやすく説明されているし、ときに経営上のなまなましい場面もそっとのぞき見させてくれるが、同時にオペラが常にポリティカルな問題をはらんできたことも頻繁に説かれている。政治はつねにオペラ座のすぐ隣か真正面にいる。そのあたりについても、本書はいろいろな角度から問いかけ、その答えを与えてくれる。ドイツと日本の事情の違いもあり、与えられる解答すべてに納得できるかどうかは人それぞれだろうが、著者の立場ははっきりしているし、説得力もある。芸術と政治とのあいだにともすると線引きをして、たがいに無関係にしておきたい人が日本には多いだろうが、そんなヤワなことではオペラの問題はひとつも解けないということになろう。
 問いの084にあるような、政治家がよく訪れる歌劇場というトピックは、日本のオペラ・ファンにはピンとこないかも知れないものの、まさしく歌劇場が政治の舞台になり得ることを象徴的に物語っている。個人的には、日本の皇室も政治家ももっと歌劇場を外交や政治の手段や演出に使うようになれば、文化と政治の関係もより柔軟になり、たがいにオープンに批判し合えるような気がするのだが。劇場文化は社会批判的な目を涵養するうえでだいじだというのがドイツにおける基本であり、演劇の最高峰ともいえるオペラ、もっとも大きな劇場である歌劇場もとうぜん、同じ枠内で捉えられている。そうあるべきだろう。オペラへの入門は政治や社会への入門でもある。そんなところまで考えさせる入門書は日本のオペラ業界にはない。その意味で本書はたんなるオペラ入門書を超えて、日本のわれわれに多くを教え、社会へ啓いてくれる恰好の書物だと思う。

                             長木誠司

オペラがわかる101の質問
ザビーネ・ヘンツェ゠デーリング+ジークハルト・デーリング 著
長木誠司 訳
https://artespublishing.com/shop/books/86559-225-2/
定価:本体2400円[税別]

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A5判変型・並製・352頁
発売日 : 2020年5月28日
ISBN978-4-86559-225-2 C1073
ジャンル : クラシック/オペラ/ガイド
ブックデザイン:五味崇宏/イラスト:平尾直子


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