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[イタリア修行編vol.3]

僕が働くことになった
リストランテ サドレルは
当時ミラノの新進気鋭シェフとして
注目されていました。

サドレルの料理スタイルは伝統をベースに、
革新的な技法を取り入れたもので、
それは刺激的な環境でした。

今は当たり前の調理器具ですが、
スチコンやパコジェット、サーモミックス、エスプーマなどに囲まれて、
まるで未来に来たように興奮しましたのを覚えています。

初めに配属されたポジションは
プリモの補助でした。
パスタとかリゾットを作る所です。

そこのポジションシェフはシモーネという19歳の巨漢の青年です。
何故か僕の知り合いの巨漢のイタリア人はシモーネとアンドレアって名前が多いんです。

シモーネは早いうちからこの業界入ったらしく
若いけど、技術もあり
何よりも頑張り屋でした。

けど若い分、時々混乱するので
僕はもっぱら、なだめ役でした。

ある日、めちゃくちゃサドレルに怒られたシモーネが拗ねて帰ってしまったので、
急遽、僕がプリモのシェフになり
何とか営業を終えました。

当時の日本にはミシュランは無く
僕にとってミシュランの星付きのレストランって
物語に出てくる様な別世界の物だったんです。

そんな星付きのレストランのお話のなかに
自分の作った料理が登場したんです。
感動に手の震えが止まりませんでした。
その時の気持ちの高鳴りは今でも強く心に刻まれています。

1週間程してシモーネが大きな体を小さく縮こませながら帰ってきました。
何故か、ポジションシェフはそのまま僕のままで
シモーネが補助になってました。
多分シモーネへの戒めだったんだと思います。

しばらくその体制は続くのですが、
アンティパストのシェフが1ヶ月程一時帰国することになったので
僕はアンティパストのシェフに移動となり
シモーネはプリモのシェフに返り咲きました。
その時のシモーネの嬉しそうな顔!
僕も嬉しかったです。

アンティパストの要はスピードで、
軽食の盛合わせを準備した後に
直ぐに前菜を出さなければいけません。

当時のサドレルは選択組み合わせのコースだったので
前菜のバリエーションも結構色々あり大変です。
てんてこまいの毎日でした。

でも営業の後半はやる事が無くなるので
片付けて、ドルチェの手伝いをしていました。

ドルチェのシェフはラリーと言うスリランカ人で
かなり出来るやつです。
初めはなんか妙に警戒されていて取っ付き難く
嫌なヤツやなと思ってたのですが、

スリランカの首都って
スリジャヤワルダナプラコッテ
やんね。

って話しかけると
お前、コッテ知ってるのか!
って急にテンション上がって
仲良くしてくれるようになりました。
ってコッテでええんかい!

仲良くなると凄く良いやつで、
色々教えてくれました。

1ヶ月後にアンティのシェフが帰って来たタイミングで
カルネのシェフが辞めると言うので
今度はカルネ(肉料理)を任されることに

併せて、新しく入った新入生が
僕のアシスタントに入る事になり
教育係みたいな事もしたりしました。
教えるのって文法が違うから、めっちゃ難しかったです。
しかもその新入生、巨漢でアンドレアって名前やし。

ある日、和食材を使った料理を作ると言う
テレビ取材が入ったので
サドレルと二人で料理を考える機会がありました。
確かワカメと豆腐でした。

この辺から、サドレルから通常メニューの相談もされるようになり
僕的にはかなり充実したミラノ生活となりました。

するとそこに、

「どうやら、アイモ エ ナディアのスタッフ
動きあるらしい」

と言う情報が、

次回 ミラノ生活 後編

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