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アイデンティティ。 光。

監禁令が二週間延びた。

ここ4、5日ほど気分がすぐれなかった。何をしようにもやる気がでない。ここに文章を書こうと思うにも、なかなか書けなかった。
初めは、誰とも会えない、四六時中ひとり、という生活を余儀なくされて孤独でしかたがなくて悲しいのだと思っていた。けれど、本当のところはそれが問題なのではない、ということに昨日はたと気づいた。

誰とも合わず、四六時中ひとりということは、自分とずっとずっと向き合うことを余儀なくされるということだ。1、2年ほど前から自分と向き合うということに力を注いできたが、仕事をしている時間も長かったし、友達と会うことが好きなので、こんなにも四六時中自分とふたりきり(?)でいるということはなかった。

自分の周りでも何人かの友達は同じ時期にわたしと同じように気持ちが落ち込んでいると連絡があった。みんな仕事を強制的に休まざるを得なくなり家にいる友達だ。逆に、食料品など営業が認められている業種に勤めていて毎日変わらず外に出て仕事にいかなければならない友達や、家で引き続きオンラインで会社の仕事をしなければならない友達は、普段と変わらず元気だ。

アイディンティティ。存在証明。人間にとってそれは生涯を通じての課題であるとされる。自我アイデンティティと自己アイデンティティのふたつがあると言われているそうだが、自我の方が「I」とすると、自己の方は「Me」とみなす説明がある。社会の中で自分が何者なのかと問うアイディンティティと、自分とは一体何者なのかと内に問うアイデンティティ。
社会の中で、〇〇の会社員であったり、〇〇を売る事業主であったり、そういった社会の中での役割は自分が社会の役に立っていると思わせてくれる。
母親や父親としての役割であったり、誰かの配偶者であったり、誰かの恋人でいることで、自分が相手にとって必要な存在なんだと確認でき、それは自分を位置付ける隠れ蓑となる。

けれど、一旦それがなくなってしまったら?
一体自分は何者?一体自分は社会にとって必要な存在なのか?

アイディンテティ・クライシス(存在証明の危機)。人は、思春期だけでなく生涯その危機を通して自分のアイディンティティと向き合っていくそうである。

自分から逃げる場所がない。自分の嫌な部分、暗い部分がどんどん丸見えになっていく気分が続く。どうかそうではなく、明るい方へ方向転換しようとするけれど、ごまかす意外に方法が見つからない。暗い部分というものは存在するのだ。顔を背けても、これでもか、これでもかというほど目の前につきつけられている気分。

まさにこの4、5日そんな気分にどっぷり落ち込んでいたのである。
誰と電話で話そうが、誰とメールでやりとりしようが、それはただのごまかしでしかなかった。孤独感ではなく、自分とは一体何者なのか、という問いにただただ押しつぶされそうになっていたのだ。

うすうす気づいてはいたが、自分が恐れていたのはまさにこの感覚だった。

そして、気分が落ち込んでいるとわたしに言っている友達たちは、一人暮らしの友達以外に、子供がいる友達、恋人と二人暮らしの友達もいた。でもどの友達も、親としての自分の役割をなぜか100パーセント受け入れられていないといつも悩んでいるいたり、恋人との関係に疑問を持っている人たちだった。

社会の役割としての面と、本来の自分(あるいは理想)の面の間にギャップがあればあるほど人はまた苦しくなってしまうのではないか、という考えが浮かぶ。どれだけ華やかな世界にいて華やかな風に振舞っていても、本来の自分をごまかしていればその内なる自分が悲鳴をあげる。

アイデンティティ問題。
あー、またこんなことに向き合うことになるなんて。
わたしはもう多分この問題から目を背けたり、逃げたりできないんだということだ。

このままいったらブラックホールに落ちてしまいそうだという感じがあったので、とりあえずのところ、もう降参、逃げません、ということにしてみた。そしてとりあえず、ただただ単純に、自分が今持っていて嬉しいなと思うことや状況に思いを向けてみようというのが、この手強いわたしのアイデンティテイ問題に対して昨日から始めた取り組み。自分の内側の喜びの感情から、自分をもう一回形成していくというたくらみだ。

自分の中にある光に気がつけますように。

愛しい日々の連続を。



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