新博愛主義論(?)苦手?嫌い?やっぱり好き?

大きな音を出す人が苦手です。
物を置く時やドアを閉める時、やけに大きな音を立てたりする人。
飲みの席でやたら性的な話をする人が苦手です。
別に少しくらいならいいけど、ずっと話してる人っていますよね。
初対面でタメ口で喋りかけてくる人が苦手です。
”タメ口が”なのか、それともファーストタッチで強引に懐に飛び込んで来られるのが苦手なのかは微妙なラインですかね。
意見のやりとりの中で意見が食い違った時に怒り出す人が苦手です。
なんとか努力はするものの、そのあとにまともに討論ができなくなっちゃう。


思いついただけでパーっと。
もうわかる通り、これは僕の”苦手な人”です。


これらがたくさんあると”苦手”から”嫌い”になったりもして、多ければ多いほどその確率は高くなるんだと思います。(実際そういうリストを作って周りの人を点数化してるというわけではないのでこれはイメージですが)
でも変な話、中にはこういうのがかなり当てはまるのに好きな人がいたり、あんまり当てはまらないけど嫌いだなって思ってしまう人もいます。


ある時期、この「嫌いな人がいる」ということを悪いことだと思っていた節があります。
多分ですが、母親が口を酸っぱくして僕に言い聞かせてきた「みんなと仲良くしなさい」という言葉がそのきっかけだったかもしれません。
その言葉をきちんと遂行できたかと言えば…うーん、お母さんごめんなさい。(笑)
まあいじめられっ子だったこともあったし、どうしたって難しかったと思います。
学校でも言われることですよね「クラスみんなと仲良くしなさい」とか、「嫌いな人のいいところを見つけなさい」とか。
僕はそれらを早々に「いや、無理だろ…」と思って諦めていたとは思うんですが、持ち前のクソ真面目さが祟ってしまって。

仲良くしなさい。

親や先生の言うことは正しいからやらなくちゃいけない。

仲良くできない。

親や先生の言うことができない。

先生や親は間違っていない。

僕が間違ってる。(僕は悪い子)

脳内はこんな感じ。(笑)
子供の自分の正誤判定よりも、大人の方が正しいに決まってる、そう思っていました。
今なら全てのクラスメイトと仲良くするなんてしなくていい、嫌いな人がいて当然、そんな風に考えることもできるんですが、当時の僕には無理だったでしょうね。


そこからどんどん拗らせるわけです。
いじめられてもその加害者のクラスメイトたちを責めきれない。
僕にも悪いところがあるのは確かで、だからこのいじめにおいての責任は50対50。
僕も自分の悪いところがあるからそれをなくさないといじめられても仕方がないのかもしれない。

ある意味そう言う観念があって、ある種、下駄箱での出来事(note記事「2/16イベントに寄せて〜改めましてクロモになります3〜」参照)での行動となったりしたのかもしれません。



音楽で愛と世界平和を訴えたジョンレノンのようになりたかった。
でもそれと博愛主義を勘違いした僕は善人も悪人も愛せなかったらジョンレノンにはなれないと思った。
どこかの国で他にやりようもなく親を殺してしまった子供がいる。
誰かを嫌いでいる自分はいつかそうなってしまうんじゃないかと思った。
だから全てを嫌いじゃなくなろうと本気で思っていたし、なんだかそんな気分になっていたりもしていたと思います。


でも今考えれば当たり前にそんなことできるはずもなくて。
あの時の僕は嫌いな人とか事柄に対してフォーカスをぼやかしていただけだったんだと思います。
嫌いだって思わないように、嫌だって否定する必要のないように、そう思うものとはできるだけ距離をとって向かい合わないようにしていたんだと思います。

でも不思議なことに嫌いなものがぼやけてくると好きなものもぼやけてくるんです。
何が好きなのかわからなくなってくる。
言葉にしてくっきりと「あれが好き」って言えなくなってくる。
当時それが原因だったのかはわかりませんが、自分の好きなものと嫌いなものを書く場面でどっちもわからなくなってしまったことがあります。
「あれ、好きってなんだっけ」みたいな。(初めて恋に落ちる少女漫画のヒロインみたい)


僕は最近自分の好き嫌いについてちゃんと言葉にするようにしています。
人に言うとかではなく、自分の中できっちりあれは好き、嫌いって言語化するようにしている感じ。
絵を描いたり歌を作ったりする上でも、今何がしたいのかがわからなくなると途端に進まなくなるんです。

でもやっぱり母さんが言っていた「みんなと仲良くする」は金言だと思っていて。
仲が悪くなっちゃったら、その人との縁はそこで終わっちゃうんです。
でも仲が悪くならなければ未来のどこかのタイミングで好きになれるかもしれないし、自分にとっても糧になるかもしれない。


ただの”苦手”を安易に”嫌い”にしないこと。
”嫌い”も自分のモノサシでしかないこと。
いつかもしかしたら分かり合えるかもしれないこと。
僕にとっての縁を大切にするっていうことのベースはこれかもしれません。

ある意味、やっとここから本当の博愛主義者への道が開かれていくのかもしれない。(別に博愛主義者になりたいとは思ってないけど(笑))

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