飛鳥 酒船石・亀形石造物・ミロク石 Photograph

画像1 酒船石 (さかふねいし)。 国指定 (1927年) 史跡 。麓の亀形石造物などの発見 (2000年) でそれらも含めて「酒船石遺跡」として拡大した形で改めて史跡指定。
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画像3 酒船石と史跡の石標。用途不明でも「史跡」になるんですね。(設置場所の地形の状況をもっと引いて撮った写真が有りますがパソコンに読み込まれませんでした。度々起こる理由は不明。[後に読込み、下貼])
画像4 [追加画像 (3月)] 読み込み損ねていた画像が後日PCのモニターを見ると読み込まれていましたので追加します。西から登り見た画像ですが、右に南からの上り坂が写っています。
画像5 [追加画像] 西から登り見る酒船石
画像6 直線を彫るなどの高度な技術を凝らしているのに、水の流れがイメージしづらいことに何とも奇妙な感じを持ちます。入江泰吉の「古色大和路」に真上から撮った写真があります。どれだけ高い位置から、起伏のある地形の何処に足場を確保して撮ったのでしょうか。
画像7 頂点 [東] の窪みに水があっても少ないのか、そこから流れ出てません。頂点の窪みより、接する溝が高くなってます。
画像8 松本清張の本に載っていたバケツの水を流す実験の写真は記憶にあります。
画像9 頂点から見て左の窪みが正円形に近く見えますが (石全体の形から見ても楕円は考えづらいのでは。) 、割り取られている部分を細かく見ればよかった。枯葉が縁に沿って留まってるようにも見えますが、そこも彫り物の円弧なのでしょうか。
画像10 流れる先と思われる溝が折れて、斜め右下の手水鉢状の窪みに向いてます。
画像11 右上の斜線溝を水が流れても、そこから延長線通りに伸びるなら、右下の手水鉢状の窪みへは届かないように見えます。(右部分の削り取られ方も、溝が有る上面だけ割り取られて、そこの低い [手水鉢状窪みと同じ高さの] 面はテラス状に残っている感じで、そんな割り方があるのでしょうか。)
画像12 手水鉢状の窪みから先への溝は彫られてないようです。この丘の北麓で発見された亀形石造物に水を流すなら、溝や鉢状窪みを左下に向けた方が近いはずですが。石の平面も南に傾いて見えます。この石自体も丘の頂の南縁近くに有ります。
画像13 ここだけ素朴な仕上げ方ですね。ここに流して溜めることは主目的とは違うのかもしれません。
画像14 やや左に回って下から見た図。
画像15 酒船石への中腹 (北) で1992年発見された石垣の遺跡。
画像16 同 / 画面左の覆屋の中が石垣の遺跡。右の道の奥 (東) に酒船石があります。[追加画像]
画像17 石垣の覆屋にある解説板。 [追加画像]
画像18 酒船石の丘の北麓で2000年に発見された亀形石造物。
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画像22 大阪の四天王寺亀井堂亀形石の学術調査がが2019年に行われ、この酒船石遺跡の亀型石造物と年代 (7世紀)・構造などがほぼ同じと判明しました。
画像23 酒船石の西方500メートル程にある「ミロク石」(西面)。この地域に多い由来不明の立石の一つ。
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画像26 ミロク石の下部 [追加画像]
画像27 ミロク石の側面。形が違って見えますね。「日本書紀」の、蘇我馬子が「弥勒の石像一軀 (みろくのいしのみかたひとはしら)」を入手して祀った (それが法興寺開創時の本尊になったとする説も有りますが) 、との記述から「ミロク」として信仰されたのかもしれません。弥勒の化身とされる布袋になぞらえられたのかも。/📔ブログ内法興寺 (飛鳥寺) 関連記事 https://note.com/artandmovie/n/n1b2ab03c0f09
画像28 ミロク石解説板と飛鳥川 [追加画像]
画像29 ミロク石を祀る堂宇を北東から見た図。《飛鳥川の向こうの山》と《すぐそばの土手》との間に有る位置関係が「マラ石」に似ていると思います。 / 記事写真 2018年5月撮影 / 23年2月更新

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