見出し画像

東大寺修二会 (お水取り) 小観音後入 (生駒山への向き変え・扉無き厨子)

📖 なぜ「小観音」は、一旦内陣から出されるのか?

🍁

東大寺二月堂修二会(通称 お水取り) の
7日 (8日未明) 「小観音後入」を参観してきました。

実は、その前段階の7日午後6時15分頃からの「小観音出御」を観るために6時頃に二月堂の前に着いたのですが、
既に7日は午後5時から二月堂へ登る石段が、午後7時からの「お松明」のため通行規制され、
「小観音出御」の際に演奏されている笙や太鼓の雅楽を長い石段の下から聞くことしかできませんでした。

しかし、その石段の下が「お松明」では、二月堂の「舞台」の南西角から松明の火の粉が降ってくるポイントなので、
(私の腕にしては) 結構迫力ある写真が撮れました。

画像1


「お松明」終了後、石段に降り注いだ松明のかけらがホウキなどで拭き取られた後は、二月堂へ上がれます。

二月堂の本尊・十一面観音像は二体あり、どちらも今は絶対見ることが許されない「絶対の秘仏」になっており、
一体が「大観音」、もう一体が「小観音」と呼ばれています。

「大観音」は西向きの厨子に安置され、(中世の火災時以降、外部で保管されている後背や天衣の破片から) 等身大と推測される銅像で、
修二会の前半の本尊。

「小観音」は御輿状の厨子に入れられて (普段は「大観音」の前にあるそうですが、修二会の前半は) 「大観音」の真裏に東向きに安置されている、像高20センチほどと伝わる像で、
修二会の後半の本尊とされ、
その期間は「大観音」の裏から厨子ごと移して、「大観音」の前、西向きに安置されます。

その移動の儀式が7日から8日未明にかけての「小観音出御」「小観音後入」です。

私が二月堂へ上がって、「西の局」( にしのつぼね ) 〔※1〕 から観た時には、
既に「小観音」の厨子は、堂内中心部の「内陣」から出され、
( 西向きの二月堂の、正面手前〔西側〕に相当する ) 「礼堂」と呼ばれるスペースの西北隅の暗がりにありました。

8日( 日程上は7日のプログラム内 )の午前0時30分頃、内陣では「走りの行法」が続いている時に、北の出仕口から松明が二本運び込まれて火がつけられ、
内陣正面の西戸口にかかった幕をめくって数人の僧侶 ( 練行衆 ) が出てきて、
小観音の厨子を東の方へと運んで行きます。

私は急いで「北の局」に移動しました。
「(二月堂の中での更に小さなお堂のような形式である) 内陣」
を取り巻く通路 ( 外陣 ) の北側の部分に、
一旦「小観音」厨子が南向きに置かれています。

その前で一人の練行衆が読経する顔が至近距離で明るくはっきり見えます。
外陣 (通路) の行き先 (東) から、振り向く形で松明が二本、しゃがんだ二人が一本ずつ斜めに捧げ持って照らしているためです。

数人の練行衆が唱和した後、
厨子はふたたび外陣を移動し、角を曲がって南へ進んで行きます。

数人の男性参拝客が北の局を急いで出て行き、
私も、厨子は内陣の正面 (西面) から入るのだろうと予測して、
先ほどの西の局へと向かいました。

私は二月堂の東の外側を南へと歩くと、
その先、堂の南東に隣接する手水舎で、おそらく先ほどの松明を三人ほどでもう洗っています。

西の局に入ると、内陣正面は先ほどと同じく戸口の箇所に白い垂れ幕がかかった状態で、
どうも厨子は既に内陣へと入った後のようでした…

なんとその後、修二会に参加されているという僧侶の方からお話を聞けたのですが、
厨子は内陣の南側から入ったそうで、それは南の局から見えるとのこと。


🍁


東を向いていた「小観音」を西向きに180度向きを変えて安置する時に
わざわざその「内陣」から出して、
(前述したように) 「外陣」の西北隅に一旦置くことに何か意味があるのか、
伺ったところ、

「平安末期に、或る事件が起こったんですよ」

と言われました。

「事件」とは、どんなことですか? と尋ねると

「それはお調べ下さい」とのことで、

「ネットにも出ている」というお答えでした。


🍁


既に私も持っていた、「お水取り」に関する特別展示の図録に

久安4年(1148)の修二会で「維順という練行衆が小観音の厨子を打ち敷く事件」( 出典「二月堂衆中練行衆日記」※2 ) について書いてありました。

この件に関する「小観音」への「謝意」として、
丁重に申上しつつ堂内 (外陣) を一周して移動させる、ということでしょうか。


🍁


私は、
 (普段大観音の前にあるものの、修二会の直前の2月21日に礼堂に運ばれて拭き清められて大観音の背後に移され、修二会の前半は)
「小観音」が東の方を向いているという状況から、
近くの興福寺南の猿沢池西畔にある「采女神社」の社殿を連想しました。

(采女神社は、猿沢池で自ら命を絶った采女を祀る神社で、
東の鳥居とは逆向きに、西面して社殿が建つ珍しい形式になっています。
はじめは池の方に向けて建てられていたのが、
一夜にして逆を向いてしまったという伝説があります。 ※3 )


二月堂の「お水取り」の当初の意図が「吉備皇女・長屋王一族の鎮魂」にあったとする説に立てば、

( 法隆寺東院 [夢殿] の「救世観音」を、「聖徳太子の等身仏」として崇めたり、
「鎮魂の対象の怨霊」と解釈する例など、
「仏像」を「実在の人物」に見立てる例は珍しいことで無く、)

二月堂の二体の本尊「十一面観音」に関しても、
「吉備皇女・長屋王」に見立てている解釈もあり得るでしょう。

二体の十一面観音を「吉備皇女・長屋王」に見立てるとすると、
大きい方の十一面観音が常に向いている先に見えるのは、
東大寺の大仏殿と、
吉備皇女・長屋王が葬られたと続日本紀に書かれる生駒山です。

逆に「小観音」の方は ( 当初は二月堂以外の「宝蔵」にあったそうですが ) 
生駒山に背を向けるかのごとく、東を向いています。

しかし、その場所は本格的に礼拝するには手狭なので、
「小観音」を本尊とする修二会後半には、堂内の広いスペースに移すのでしょうが、

それまで「生駒山」と逆の方を向いていた「小観音」を
「生駒山」に向けさせるという点において、
いきなりグイッと逆向きにするのでなく、

段階を踏んで、徐々に西を向いていただくという
微妙で繊細な対応が求められる、

それが、一旦内側の堂を出して
申上しつつ、一周してから西を向くという
儀式として現れているのでは、
と考えました。


( 随時更新。20年12月更新 )


〔※1〕 東大寺二月堂には、東西南北の各サイドに「局」(つぼね) という大部屋があり、修二会の期間中は畳敷きの参観席が設置され、一般客が自由に入って格子越しに堂内の法要を観られるようになっていますが、儀式の状況によって自由な出入りが難しい場合もあります。

〔※2〕「 維順者 (略) 至第五日走時 於仏後 本師観音御宝殿打敷也 」

〔※3〕鳥居との位置関係ゆえに「逆を向いている」と言われるのですが、
よく考えてみると、池とは逆方向に建ち、それが「正規の向き」であろう祠は、
他の場所では普通にありますよね。
この采女神社の場合も、はじめから鳥居を西側に建てて、西から入れるように参道等を設けておけば、自然な形となったと思います。
西の方が「裏」になった故か、その方向は間近に他の建物が有り、
「裏」を向いた社殿は、まるで壁を見ているような状態になっていますが、
昔は西の方はどうなっていたのでしょうか。
仮に初めから壁のようなもので囲われて、そちらに向けて社殿が建てられていたとすれば、
なにか「鎮魂」的な「封じ込め」の形式だったと言えるかもしれません。

二月堂の「小観音」を納めた御輿型の厨子は、
なんと開閉のための扉がはじめから無いとのこと。


🍁
(参考)
📷 采女神社 (北鳥居をくぐって北西方向から。社殿背後の東鳥居の向こうが猿沢池)

画像2

📷 東 (猿沢池の方) の鳥居からの采女神社。社殿は背を向けて西面しています。

画像3

📷 猿沢池東畔から采女神社 (画面左奥) を望む。画面右は九重石塔と傍に立つ采女地蔵と記した石仏 (采女が衣を掛けたと云われた「きぬかけ柳」の石碑が近くにあります)。画面中央は興福寺南円堂。 (2017年6月9日撮影。コンパクトデジタル)

画像4


🔍 采女神社 (奈良) 公式Tweet. 


🔍 関連記事 もう一つの采女伝説 (福島県郡山)


🍁

📖 ブログ内関連記事 (写真) 



(12月, 21年1月3月22年10月 [タグ追加, タイトル (生駒山への向き変え・扉無き厨子) 追加, 「 (普段は「大観音」の前にあるそうですが、修二会の前半は) 」追加] 更新)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?