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森鷗外 (1862年-1922年)の誕生日 (2月17日) 小説家

森鷗外  もり・おうがい  (1862年2月17日 [文久2年1月19日]-1922年 [大正11年] 7月9日)小説家・著述家・軍医・官僚。


1917年 [大正6年] から東京、奈良、京都の帝室 [現・国立] 博物館の総長に就任し、
1918年から1921年までの4年間毎年秋に正倉院開封に立ち会うために1ヶ月ほど奈良に滞在したそうです。
(この期間、1918年に「古寺巡礼」の和辻哲郎が奈良を訪れています。「古寺巡礼」は奈良帝室 [国立] 博物館の展示方法などに批判的ですが。)
その時期に詠まれた風刺調の短歌が「奈良五十首」として
1922年 [大正11年] 雑誌「明星」に掲載され、鷗外最後の創作の発表となりました。

「奈良五十首」にはモチーフに沿って上代の古典をもじったものが有り、例えば

大安寺今めく堂を見に來(こ)しは餓鬼のしりへにぬかづく戀か    
                     大正8年 [1919年]

は、「万葉集」の笠郎女による大件家持との恋歌 

相念はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後へ [しりえ] に額づくが如  
                     笠郎女(巻4 608)
原文   不相念人乎思者大寺之餓鬼之後爾額衝如

( 大意・片思いなどというのは、大寺の [後ろの方に置かれている] 餓鬼の像に [仏の像と間違えて] 後ろからぬかづいて祈るようなものだ )

をもじったものでしょう。

近年に建てられた簡素な堂宇のみが建つ
奈良時代の古寺の状況に鷗外が抱いた忸怩たる想いを、

笠郎女の家持への「片想い」と重ね合わせたものと考えられます。


この鷗外の類比は正直あまりピンと来ませんが。

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🔍 青空文庫  内田魯庵「鷗外博士の追憶」 (奈良帝室 [国立] 博物館、正倉院の公開に森鷗外が果たした功績が指摘されてます。)   

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奈良国立博物館敷地の北東隅 ( [登大路の] 東大寺前の交差点と接する辺り) に、
鷗外が滞在した官舎の門が「鷗外の門」の名で保存公開してあります。 

📖 本ブログ記事 (21年3月)


🔍 Google検索「鴎外の門」 (「鴎」の字で検索すると門の写真が出たので、そちらを貼っておきます。)


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(17日18日21年3月更新。訂正  亀井勝一郎と堀辰雄は、どちらも1937年から奈良を訪ねています。)

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