File.21 細萱航平さん(インスタレーション・空間芸術)インタビュー
――現在の活動の内容を教えてください。
私には地質学のバックグラウンドがあるということと、モニュメントのことなどを調べていたということもあり、最近は石をテーマにして作品や展覧会をつくることが増えました。
――モノづくりをはじめたきっかけを教えてください。
中学生くらいかと思います。身内に美術の先生がいて、なにか作りたいなーと思ったときに一番身近にあったのが美術でした。モノをつくりたいという気持ちは、まずは美術に向かっていきました。
今のような活動を始めたのは大学生のときからです。大学に入ってからもっと美術をちゃんとやりたいと思い、美術部に入りました。やがて、さらにそこを突き詰めたいという思いが強くなって、彫刻を勉強する大学院に行って、それで今のような活動につながっていったのだと思います。
――大学は芸術学系ではなくて地学系の学部に進まれていますが、そのときは将来、今のような作品を作るとは思っていなかったのですか?
そうですね、学部に進学した当初から今のような活動をしたいと思っていたわけではなく、純粋に自然科学には興味があったので、それをちゃんと勉強したいと思っていました。それと同時にモノを作ることにも興味があって、1人暮らしを始めてから、その2つに打ち込める環境になりました。せっかく2つやっているんだから、どこかで繋がるかなと思うこともありました。それが今の作品に繋がっていると思います。
――作品をつくったり表現したりする際に大切にしていることを教えてください。
チープな言い方をしてしまえば、まだ誰も見たことがないものをつくろうという気持ちがあります。
自分がつくったものをすぐに「これが芸術だ」、というような短絡的な話にするつもりはなくて、彫刻家を名乗る責任に見合うようなものをつくることができているかは、いつも気にしています。アーティストや彫刻家を名乗るのは自由ですが、自由には責任が伴うと思うからです。
モノづくりをする上で果たすべき責任は何かと考えると、モノをつくることで誰か一人でも今まで気づかなかったものに気づいてもらうとか、知らなかった価値観に接近してもらうといったことが、責任だろうと思います。なので、誰も見たことのないものをつくる、という言い方をしました。
私には美術だけでなく地学という武器があります。そこで、それら両方を使うことで、まだ人が見たことがない、ほんとは隣にあるけど気づいていなかった世界に接近するということに挑戦しています。
――過程や作品にこだわっている部分はありますか?
今、石の話をしましたが、石を見せることと同時に空間をつくることにこだわっています。
美術やアートというと、絵や彫刻などが一般的にイメージされると思います。ですが、芸術にも色々あって、他にインスタレーションとか空間芸術などもあるかと思いますが、私の作品はどちらかというとそれらに寄っていると思います。
モノを見せるにしても、見せて終わりでは面白くありません。我々はモノを置く場所の文脈を読み、モノを判断します。例えば、レモンがギャラリーにあるのか、食卓にあるのか、トイレにあるのか。はたまた外に落ちているのかで、我々がそのレモンに対して何を感じるかは全然違うということです。裏を返せばモノと場所は依存しあっているということです。モノと場所の関係性で生まれる現象も依存しあっています。
今はモノを置くことで空間をつくるということに意識が向いています。今回の展示も、「空間が広すぎるから壁をつくりたい」と伊那文化会館のスタッフさんに相談しました。それは空間にリズムや流れをつくらないとちょっと興ざめかなという思いがあってのことです。
モノ一個一個を見ると、もしかしたら面白くないかもしれないけど、モノと空間の組み合わせで見たときにちょっと不思議な世界が出てくるようなつくり方を意識しています。
――特定の石を持っていると体の治癒力が増したり、痛い所が良くなるということが言われることがありますが、高遠の石にはそういう部分はありますか?また、そういった部分からインスピレーションを得て作品につなげたりすることはありますか?
2つお話したいです。1つは、石から不思議な力を感じて作品に繋げているかという点についてですが、半分YESです。ですが、石からインスピレーションや不思議な力を受けてつくっているかと言われるとNOです。我々は石に対してそういう念を抱きがちであるという所には興味があります。例えば、石自体がご神体になっている神社があったりしますよね。
私にはスピリチュアルな世界と繋がっているという感覚はありませんが、科学の言語で説明できない何かが宿ったりとか、そういったことはあってもいいと思っています。しかし、私はそれを解する言語を持っていないので、私の捉え方としては、「我々はそういったもの(石など)に何かが宿ると思う傾向がある」といったような感じで、ちょっと引いて見ています。
大きい石が河原に横に転がっているだけだったら「石だなぁ」くらいの意識ですが、その石に細工をして不自然に立てておくと、「なんで石が立っているんだ」と思い、もしかしたらそこに超常現象のようなものを感じるのかもしれません。それと同じように、もしかしたら神社のご神体には意思があると感じるかもしれません。我々はそのように感じがちなのですが、感じていると思っているだけかもしれませんし、本当に宿っているのかもしれません。
私はそれをモニュメントという文脈からとらえています。以上のように、石の持つ力というような考え方は活動する上では考慮はしていますが、自分がインスピレーションや不思議な力を受けているのかというと、そうではありません。
もう1つは、石から我々が受ける印象の話をしたいです。石を見る人がどのコミュニティに属しているかで石に対して何を感じているのかはかなり色々あると思います。私は地質学が一つの支えになっているので、私が石を見ると、何年前の石なのかとか、何で組成されているのだろうといったところに意識が行きます。しかし石のパワーを感じることができる人は、この石にはパワーがあるねとか、今この石が邪気を払っている、という話になるでしょうし、或いは土木建築系の人からしたら、この石は割と柔らかくてねぇといったようになりますし、子供からしたら、これでちょっと川で水切りしようぜとなります。石に限った話ではありませんが、石は特に人によってどういう文脈で見るかというのがかなり違うと思います。私の場合はさらに彫刻というものがありますから、もう少し引いて見ています。人が石をどのように見るのかというのは千差万別ですし、そこにも興味があります。モノや石自体に意味があるのではなくて、我々がそれに意味を与えているというところが、人間とモノ・石との関係を図る上で一つ忘れないで考えなきゃいけないことかなと思うので、意識しながらやっています。
高遠石にも地質学の文脈で意味を与えましたし、彫刻というか石工の意味でも調べて与えました。他の人から見ると違う意味があるのかもしれません。さらに言うと、高遠石という名称が相当に意味を与えていると思います。地質学者が何も知らないままあの石を見たら、これは粗粒玄武岩です、とかドレライトです、とか、それで終わりかもしれません。しかし、あの地域で出てきて、ある有名な石工がそれを使ったという歴史があって、高遠石という名称を付けられました。それによって特別視されているということがあります。我々がモノに対してどういう意味付けをして、それとどのような関係を結ぶかというところで、特に石は興味深いと思います。
――外で飾っていた、バイクに神社を付けた作品がありましたよね。あの作品はどのように制作したのですか?
元々はモニュメントに興味があって研究をしていました。我々にとって身近なモニュメントの一つに石碑があります。我々はそういったものに不思議な力を感じている節があります。また、一方で奇妙な石や神社の形を見て反射的に「ありがたい」と思っているような節があります。しかし、私のつくった神社はお祓いをしてもらっているとか、中に大事なご神体があるとか、そういったことはありません。
神社や石碑のようなものは、場所に依存していると感じます。なので、それをバイクにつけて動かしてみると、従来的なモニュメントの考え方からするとあまり相性が良くありません。場所から切り離されたあの神社に何かは宿るのか。もし宿るのだとしたら、我々が宿っていると感じているだけなのではないのか。モノと我々の関係に対する興味からあれを作っています。展示室の中の作品と、外のバイクの神社とは別物に見えるかもしれませんが、私の中での興味は一貫しています。モノと我々というコンセプトは、モニュメントも石も同じです。
――素材はそのままで、どう見せるか。ということにチャレンジしているということですが、それは地質学の知識と細萱さんのアイディアを組み合わせてできたものなのですか?
そのように解釈していただいていいと思います。もうちょっと言えば、たとえば美術とかアートという言葉を出した瞬間に、石や木を彫るとか、絵の具を使うとか、そういったことを想像するかと思いますが、特に現代アートをやっているような人はそこに対して異を唱える人が多いと思います。
例えば料理をするときにニンジンを切りますよね。こういった過程や素材や動作が組み合わさって料理が行われていきます。我々はそれを慣習的に料理という文脈で見ますが、あれだってモノをつくっていることには変わりはありません。我々がある物質に対して操作を加えているという意味合いでは変わりはないからです。ですから、広い目で見たら芸術になりうると思います。
私が制作でよく使うのは地質学の研究手法です。我々は地質学という言葉を聞いた瞬間に、科学だ、というレッテルを貼ってしまいます。そういうカテゴライズというのは、我々が人生を生きていくときに脳のリソースを節約するという意味では便利だと思います。しかし同時に、我々が新しい発見をすることを妨げていると思います。
地層を剥ぎ取ったものは、地質学的な見せ方をしてしまいたくなりますが、別の見せ方を試みることができたら、それはもう立派な制作手法になるかもしれません。つまりあらゆるモノや所作、動作からカテゴライズを外していく。慣れや先入観を外していく。こういったことは芸術家の仕事だと思います。例えば椅子について、通常無いような場所に通常ではない格好で椅子が置かれていた場合、たぶん一瞬椅子に見えないんです。そのときに我々は初めて椅子という先入観を除いた生のモノと向き合えると思うのです。そうなったときにどんな出会いがあるか、どんな感覚が生まれるかというところに意識を向けています。私が地質学の所作を制作に取り込んでいるのもそういう意味合いでやっています。
――もともと地上にあった石を空に飛ばして宇宙を表現したり、何千万年も前に存在していた石が目の前にある不思議さを表現した展示をしたり。理系で頭脳明晰で、一見冷たいクールガイですが、実はすごいロマンチストなのではないのかと感じたが、ご自身ではどう思いますか?
私は自分のことをロマンチストとは呼ばないで、最近の言葉で中二病だと言っています(笑)
詩的であること、ポエティックであること、リリカルであること、これはこれで非常に大事だと思っています。
最近一貫して制作しているテーマは「過去」なんです。我々は過去を知覚することはできません。我々が過去を感じているような気がするのは、過去を想像しているだけであって、過去そのものを感じているとは言い難いです。我々は平気で過去を思い出したり分かった気になったりしていますが、本当は知識とか言葉の伝承だけで知っているだけです。石も、これは1600万年前のものですと言われて「へぇ~」と思うけれど、放射性元素の測定で自然科学の法則に基づいて分かっているだけなので、感覚として自分の中で納得できるものではありません。我々は共通知識として知っているふりをしているけれど、それを想起するのは凄いことだし、すごく無責任なことだとも思います。でもモノ自体はそこに存在してしまう。このチグハグさというか、気持ち悪さみたいなものがあるのですが、それでもなお過去にこういうことがありましたと言われれば我々は実感してしまいます。そこに我々の詩的な感性が関わっているような気がしています。ロマンチックであることを否定するつもりはありません(笑)
――nextに登録するにあたって期待することや一緒にやっていきたいことをお聞かせください。
登録がきっかけとなり、私の活動を知っていただく契機になればありがたいと思います。
――今後の活動や目標を教えてください。
もう筋は決まったなと思っています。基本的には地質学みたいなものと芸術みたいなところ、特に彫刻。これらを掛け合わせて制作活動を深めるということは変わらないなとは思っています。ただそのためにもっと勉強したいとも思います。もうちょっと広い視点で言うなら、どこまで深いところまでいけるか、です。そういったことを目標に活動していきたいです。
展示会名
去来(石を介す)
かつて高遠を訪れたときの記憶や、彫刻に関わる者として見る高遠石・高遠石工の解釈、あるいは地質学の観点に基づく石の姿など、高遠という場所から得た幾つかの視座が今回の動機となっています。それら一見すると全く次元の異なる複数のイメージを、私という地平上で混ぜ合わせ、一つの複合的な時空に表すことを試みます。彫刻やデジタルメディアを主に用いたインスタレーションとして展示を展開します。
(取材:「信州art walk repo」取材部 伊藤羊子・清水康平・山田敦子)
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