[批評]人間の終焉と「類似」――模倣の政治経済学・序|大黒弘慈


二つの個体

坂部恵に『ヨーロッパ精神史入門』(岩波書店、1997年)というたいへん示唆に富む作品がある。坂部はそこでヨーロッパ精神史の時代区分の大きな組み換えを試みながら、近現代の思考の淵源を中世に求める。即興的な着想が随所に散りばめられているなかで、いわゆる「普遍論争」に対する解釈がじつに興味深い。坂部は、カロリング朝ルネサンスに始まる「ヨーロッパ世界の哲学」の最初の大きな切れ目として、14世紀の哲学の動向、つまり唯名論(オッカム)と実在論(ドゥンス・スコトゥス)の対立をあげるのである。この論争は今日「普遍的なものども」は実在するのか、それとも実在するのは個体だけで類や種は唯名的な、名ばかりのものかを巡って争われたものと了解されている。しかし坂部はパースの所論を引きながら、この論争の真の争点は、普遍と個を巡るものというよりは、それに先立って、個的なものをどう捉え、どう規定するかにかかわるものであったことを強調する。つまり個的なものを、「確定されないもの」から出発して汲みつくしえない豊かさを持ち普遍者を分有するものとみなすのか、あるいはそれを「確定されたもの」いわばアトム的要素とみなすのかが、じつはそこで争われていたのだというのである。

「個的なものどもで十分である」というオッカムのモットー(オッカムの剃刀)に通うノミナリズム風アトミズムは、ホッブズからヒュームに至る17世紀から18世紀の「功利主義」哲学とコントの「実証主義」に受け継がれ、これらが「モダンの道」を形成する、とわれわれは何となく了解している。しかし坂部は、ノミナリズム系統の「個」の概念とは別に、もうひとつ別系統の「個体」概念がヨーロッパ哲学の伝統には存在するというのである。つまり全宇宙をみずからの内に潜在的に孕み、汲みつくしえない豊かさを湛えた個体の概念である。

クザーヌスやライプニッツに代表される、この(いわば「垂直の」)個体概念は、抽象的でそのかぎりでは同質な個とはちがって、はじめから、置き換えのきかぬ独自のこの私であり、しかもみずからのうちに、他の個との交流の素地をもっています。しかも、異文化や異人を、その他者性を尊重しながら交流できる素地を、です。(同書156頁)

アリストテレスがすでに、プラトンのイデアを批判し「個物」を救い出そうとするなかで「知性がその究極において対象世界と臍の緒でつながっていること」を主張したのだとするなら、アリストテレス思想を中世スコラ哲学盛期の思想家(トマス、スコトゥス)へと媒介したイスラムの思想家アヴィケンナの「共通本性」は、能動知性が個人へと内属し、普遍者が個に宿るというように普遍と個の関係を捉える。さらにスコトゥスは、現実の個物の「数的な単一性」とは区別された「数的単一性よりも小さな実在的単一性」を(個的でも普遍的でもない)「共通本性」に帰して、より実在論を徹底させる。そして「無際限な述語規定をもち、汲みつくすことのできない個物」、「このもの性」(実体形相)というこの種の個体概念こそ、「バロックの哲学者」ライプニッツのいう「小宇宙」としての個体概念に連なるものだと坂部はいうのである。

さて近代的な孤立せる主観と異なり、この個体概念は普遍と個の共生のみならず、自と他の共生をも含むいわば開かれた個体にほかならないが、坂部は「作業仮説」と留保を付した上で、個(個体)と普遍(類種概念)の問題のプロトタイプには、じつは「似たもの」の認定が核心にあるのではないかと、注目すべき発言をする。

そのことの含意の第一は、個と類種の問題、個の普遍への内属の問題などというのが、そもそも、純理論的な問題であるというよりは、むしろそれに先立って、「類比」的ないし「比喩的」(「私のようなもの」)思考による、自分の同類(と「異類」)の認定にその根をもっており......。(64頁、強調引用者、以下同)
中世の「実在論」、「レアリスムス」における、個の普遍への内属という考え方の根底には、あえて不正確ないいかたをすれば、こうした事態の、「類比的」あるいは「比喩的」思考(一種の「野生の思考」!)を介しての、認定がまずもってあった、とわたくしは想定してみたいのです。(65頁)
重要なことは、ここで無限定的系列をしたがえた(柔軟な同一性をもつ)個体という概念が、比喩的思考の原初性、根底性という構造主義このかた浮上した現代的テーマを許容しうること......。(66頁)

坂部は、ノミナリズム的な、抽象度の高い「個」の概念が基本的人権や民主主義の基底をなすかたわらで、社会制度をフィクションと見なし、「同胞」の同定を遮断するのに対し、スコトゥスの「このもの性」、アヴィケンナの「共通本性」、ライプニッツの「小宇宙」のような、普遍と個の境界線上にあって「確定されないもの」はいずれも、「人間」と「人でなし」の境界線上でたゆたうことで、「異人」や「異族」や「異教徒」をも同胞と同定し、そればかりか生物学上の種としての「人間」をもはるかに超えて「同胞」観念を拡張する今日の環境保護思想にも連なるものであることを示唆する。そして抽象度の高い孤立せる個とは区別される「柔軟な同一性をもつ個体」は、「類比的」思考と親和的だとするのである。


「人間の終焉」(人間学のまどろみ)と「類似」

興味深くもそこで坂部は同時に、フーコーの『言葉と物』を引き、カントの人間学の構想を辛辣に批判するのである。かつてカントはヒュームによって「独断論のまどろみ」から醒まされたと記したが、そのときカントは新たに「人間学のまどろみ」に入ったのだと、そこでフーコーは指摘していた。

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