利益誘導政治と民主主義

利益誘導型の政党政治という問題、つまり政党が自らの利益のために動く政治という問題については、明治時代に帝国議会を設置する段階ですでに憂慮されていた。
当時はイギリスにならって、衆議院の上に貴族院を設置することで対応した。日本でいう貴族とは、元公家・元武家を主とする、国家功労者たる華族のことで、彼らは天皇の奉仕者となることを期待されていた。政党政治である衆議院の上で、「良識の府」的な振る舞いを期待されていたわけだ。実際にはもっとドロドロしたものがあったかもしれないけれど。
戦争が終わり、貴族院が参議院に姿を変えると、政党政治の問題を抑制する意図はほとんど消失した。参議院は衆議院のカーボンコピーと言われることもある。

ただし私は、帝国議会の思想が現在の議会制度より優れていたと言いたいわけではない。明治時代は欧米諸国との外交を受け、「国家存続のため」が重要だった時代だ。当時は日本vs外国という重大な対立構造があった。個人vs国家という従属的な対立構造に対応するため、貴族院が必要とされたと表現してみたい。

「国家のため」という大きな物語が失われた現在では、国民全員が自らの利益へ誘導することこそが民主主義であると言ってもいい。
利益誘導型政治は、民主主義の「問題」ではなく、「前提」となっている。
国民全体が共有する方向性が薄弱なのだから、自分の都合に従うのが一番ラクであることは確かだ。

「野党は批判ばかりで……」と良く口にされるが、これは実際的な意味では間違っている。野党も議席がある限り法案提出をしているし、民主主義を成り立たせるための合意形成という仕事をこなしている。

しかし選挙となると話は違う。一部野党は与党の利益誘導政治を批判するが、民主主義そのものが利益誘導政治だというのでは、批判が意味を持たない。
説得力ある民主主義の再構築は可能だろうか。

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