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内的感覚から家族のあり方を思索する

幼い我が子に「家族は誰?」と尋ねると
「ママとパパとねえね」だと返ってきた。

「にいには?」と聞くと「にいにも家族だけどさ」という。

今国外にいて一緒に暮らしていない「にいに」は、オンラインゲームで頻繁に遊んでいるにも関わらず「家族」というカテゴリーとは微妙に違うと思っている節がある。単に忘れていただけかもしれないけど。

家族ってなんだろう?
再婚歴のある私にとっては結構難しい問いだ。

私には子供が四人いる。同居している子供が二人いて、そのうちの一人とは血縁関係が無い。また、同居していない子供も二人いて、そのうちの一人とは血縁関係が有る。

血縁関係がない二人の子供は、日本人の母とイギリス人の父の血を引いていて、一緒に出歩くたびに周囲の好奇の眼差しに晒されることになる。

こう書いただけで何やらややこしい人生に見える。

そこまで子供好きとは思えない、いやむしろ子供嫌いとも見られがちな自分が、よくもここまで多様な子供達に恵まれたものだと、我ながら自分の人生の皮肉さに呆れる。

他と違うことで色々な悩みや整理できていないこと、また子供達に対しての申し訳ない気持ちや将来への心配事もあるが、それでもふとした瞬間に思いを馳せたり、幸せを願ったりすることができる子供達が多くいることに安らぎを感じる。

家族
夫婦の配偶関係や親子・兄弟などの血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団。社会構成の基本単位。
『広辞苑』

夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団。
『大辞泉』

「血縁」関係があったり、「共同生活」していたりすることは、家族を定義する際に結構重要な要素になってきそうなものだが、私の場合、その条件が二つとも見事に無効化されていて、血縁や同居の有無だけでは括れない家族構成になっている。

時代とともに家族のあり方も多様化しているし、同じ家族の一員でも、一人ひとりが思い描く家族の範囲はバラバラだ。

自分が「家族」だと思っている範囲と、自分以外の家族が「家族」だと思っている範囲が明らかに異なる場合がある。

家族の範囲を血縁関係に限定して考える人もいれば、血縁や法律、共同生活を超えてどこまでも広げて考える人もいる。

そう考えると、血縁関係、法律による縁戚関係といった外的な条件とは別に、一人ひとりの主観による「内的な家族感覚」という概念も存在すると考えた方がしっくりくる。

内的な家族感覚とは、自分の延長として一体感覚を持って捉えられる他者を包含した概念とでも言おうか。

もはや自分の内部に存在していると言える他者。その人が喜べばまるで自分事のように心が弾み、その人が傷つけばまるで自分事のように痛みを感じる。そんな感覚を持てるかどうかも、家族であることの一つの基準として採用できるのではないか。

家族とは、「血縁や法律などの外的条件だけではなく、個人が持つ内的感覚によっても決定付けられる私的な共同体」と定義することができそうだ。

家族の括りは、結局は一人ひとりの意思によって形成される極めて個人的な概念なのだな。要は自分が「家族」だと思えば、それは家族なのだ。

ふと「ピブとシャークは家族?」と聞くと、我が子から「うん」とはっきりとした返事が返ってきた。どうやら彼の内的感覚では、人だけでなく、猫達も立派な家族の一員であるらしい。

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