天之石立神社

奈良にある天之石立神社に足を踏み入れたのは十年近く前。
当時、名前も知らない、存在すら知らないこの神社に向かったのは、
私の後ろに「亀裂の入った大きな岩が見える」と言われたからだった。

「呼ばれてるわよ」

スピリチュアルにありがちなこの一言に突き動かされ、
どこのなんていう岩なのかも全く知らず、
ネットで随分と該当するであろう岩を探すという無謀とも言える行動にでる。

大きな岩が祀られている場所は日本各地にある。
亀裂が入っている岩も多く、
見えたという岩がどれのことなのか、調べていても私には全くわからない。
私に「見えた」わけではないから、当たり前といえば当たり前だった。

「呼ばれているわよ」と言ってきた人が「ここよ」と出してきたのが、天之石立神社の画像。


私が住んでいるのは神奈川。
この神社があるのは奈良。

じゃあこの週末にでも…と気安く行ける場所でもないのに、
はやる気持ちに翌週には目的地に向かう私がいた。

始発の新幹線に乗り、奈良駅に着いたのはまだ朝の早い時間。
「参拝は早朝、少なくとも午前中に」と言われたことを律儀に守り、
午前中にはちゃんと神社につくように経路や時間を調べて、
電車を乗り継いで初めての地へと向かう。

奈良駅についてから、柳生の里に向かうバスに乗ること約1時間(記憶がかなり曖昧だが、かなり長く乗っていた気がする)。
ただ「呼ばれている」と言われただけで、よく知りもしない遠い神社に向かっている自分を少し滑稽に思いつつも、
なんだかよく分からない使命感に突き動かされ、
窓の外にひろがるのどかな原風景を、好奇心と不安を抱きしめながら見ていた。

うろ覚えなのだが、柳生の里(もしくはその近く)は、源義経の母親である、常盤御前にゆかりのある土地。
源義経がすごく好きなわけではないけれど、興味をそそられている私は、かつてこの地に彼の母親の常盤御前がいたのかと、今はのどかな原風景に当時を想い馳せる。

バスに揺られながら、奈良駅に戻ったらかつての遊郭のそばにあるという源九郎稲荷神社へ行こうかと、携帯の充電を気にしながら義経と源九郎稲荷神社の関係を調べてみる。

目的地のバス停についてから、田舎道を歩くこと約30分。
澄み切った空気の中、田んぼの水路に顔をひょっこりだした青色のトカゲや、土や緑の香り、時折ふく風の心地よさを感じながら、山を登る。
途中には、どこの宗派かわからないがお寺があった。

そのお寺を越えてすぐだったと思う。
私を呼んでいるという「天之石立神社」が見えた。

岩を見たからといって、特別「大きい!!!」と思うわけでもなく、圧倒的なエネルギーに驚くわけでもなく、ただ「ここが目的地か」と淡々と思っただけで、「呼ばれている」という感覚を終に感じることはなかった。

ちょっと期待外れ…そんな気持ちで岩のそばまで行くと、なぜか涙が込み上げてくる。静かに涙を流す、というのではなく、嗚咽をともなって次から次へと流れてくる涙。

でも、私の中はとても冷静で、自分の嗚咽を他人ごとのように冷静に見る。まったく感情の伴わない嗚咽。そんな体験をしたのは初めてだった。

今思い返しても、あの時なんで泣いたのか全くわからない。
私の体を使って、誰か他の人が泣いていたのではないのか。

「呼ばれている」という理由はこれなのかもしれない。

だがその割には、その岩を目にしても「ここに来たかった!」とか「懐かしい」といった想いは全く湧き上がってこず、ただ淡々と「呼んでいた」というその岩を眺めていただけだった。

私以外は誰もいない空間で、虫の声が響く初夏の空気の中、ブーンという聞こえない音が響いている。低い音かと思いきや、リーンと澄み切った高い音も聞こえてくる。聞こえるというよりは、そういった音を感じている、といった方が正しいのかもしれない。耳で音を拾っているわけではないようだった。

わけのわからないひと泣きをしたあと、ただただ静寂の中に身を任せる。

時折聞こえてくる鳥のさえずりや風の音。

岩が発する聞こえない音。

どれだけその場にいたのか、今では思い出せないのだが、しばらくその空間に身を馴染ませたあと、帰りのバス停へと向かった。

「呼ばれている」と言われると、例えば前世の記憶を思い出すとか、何かわかりやすい人生のターニングポイントになるとか、いろんな期待をしてしまっていたのだが、10年近く経った今でも、結局何だったのか分からずじまいだった。


ただ言えることは、「呼んでいる」のはその場所だけではなかったということだった。









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