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カラオケ行った

映画『カラオケ行こ!』を観に行ったわたしのためのわたしの話。この作品に出会えてよかった。

年明け、世界で一番好きなひとが世界で一番大切なグループを離れてソロ活動の道を進むと発表されてからというもの、生活はそれなりにぼろぼろだった。それでも働いて生きていかないといけない、どうやって?と考えたとき、私を楽しませてくれた過去の好きなものたちを辿ろうと思った。根本の解決にはなっていない。それでも生きていかなきゃいけないから、そのほんの少しのエネルギーでももらえたらいいかなという思いで復習したMIU404。話をした友人から綾野さん繋がりで「カラオケ行こ!、観に行ったら?好きだと思うよ」と勧められた。言ってしまえばなんでもよかった。私の好みを知り尽くしている彼女の勧めを聞いて調べてみたら、予告の段階で面白そうで早くカラオケに行きたい私が完成していた(そうですか)


観終わったら観終わったで「良い映画を観た、が、なんだったんだ…………………?」しか残らなかった。なんとか残しておきたいので喋ってみる。鑑賞後原作カラオケ行こ!、続編ファミレス行こ。、シナリオブック、ビジュアルブックを抱えて帰宅した。パンフレットは売り切れていた(2回目行ったら入荷してた嬉しい)。
わたしはこの映画のおかげで、ずっと不安定にぐらぐらしていた心がやっと落ち着いたような気がしている。やっと地に足がついた。私はこうやって好きなエンタメに足を運ぶことでこれからも生きていけるかもしれない、と、あの発表以降初めて心が少しだけ上を向いたようだった。


良い悪いではない、だからこそ良かった。なにが正しくてなにが悪だと、そういうのがない世界だからよかった。間違いだったのかもしれないけど、余計な言葉がひとつもなくてよかった。2人のことを、2人以外の人が何も言わない世界でよかった。正しいとか正しくないとかじゃない。そんな話はひとつもしていない。2人の、狂児と聡実の話をしている。

軽やかなコメディと爽やかな素敵が散りばめられている一方で、なんだかずっと気味が悪かった。奇妙な世界だった。言われてみればなんの説明もない。ひとつも説明がなく、でも聡実くんの日常とふらっと現れる幻みたいな狂児が確かにそこにいた。

「ヤクザが中学生に歌のレッスンをお願いする」ことしか知らずに行ったけど、観終わった今でもどんな話?と聞かれたらこれしか答えられないと思う。
初見のわたしは「えっ聡実くんいいの…?!よくないよね…最後の合唱祭放り出していいの?最後なのに?狂児のためにそのソプラノの最後を使っていいの?いやよくないよね……まあ本人がいいならカラオケ大会行ってもいいか…いやよくない…」を延々やってた。

狂児は美しいソプラノが聴きたかったんじゃない。上手いも下手もどうでもいい。聡実くんの歌が聴きたかった。聡実くんは狂児のために最後のボーイソプラノを捧げた。
意味を持たせようと思えばいくらでも付加できるけど、映画では何も語られない、たったそれだけのお話だった。

何が正しくて間違いで、何が美しくて何が地獄で、ってなんの道標にも答えにもならない。語りもモノローグも余計なもののひとつもない、聡実くんと狂児の青春だった。それでよかった。それがよかった。『ファンタジーヤクザと中学生の青春映画』。「良いものを観た。映画館に足を運んでよかった」と思える出会いがあるからやっぱりエンタメが好きだ。

綾野さんがこの映画は聡実くんの物語、齋藤潤くんのドキュメンタリーだというので、2回目は聡実の青春物語として観ようと思って行った。何ということでしょう。聡実くんの話だと思って見れば見るほど狂児だけが異質。狂児だけが幻みたいに見える。狂児が聡実くんを見つけたとき、聡実くんもまた狂児を見つけている。でも狂児の方が圧倒的に「聡実くんを見つける才能」がある。狂児がどこかに行ってしまえばもう聡実くんは見つけられない。ふらっと現れて、去って、また気まぐれで戻ってくるような男。「こっちは必死でやってきてんねん3年間も!」と重なる3年という年月。また2人の世界が交わっていく予感、ずっとカラオケ行っててくれ……と祈ってしまうラスト。

青春は巻き戻せない。最後の合唱祭。中学3年生。聡実くんが狂児のために使った最後のソプラノ。狂児とカラオケに行った日々。そのどれもがもう一度過ごすことのできない時間。だから眩しい。雷鳴のなか出会った2人が、青空のもとで屋上で笑い合っている。ヤクザと中学生だけど、ひとりとひとり、狂児と聡実。ふたりの出会いは紛れもなく青春だった。幻みたいなひとだったけど、ちゃんとそこにいた。

「あんたが去ったとき、俺は振り返られへんかった。ハートがめちゃ痛い。追いかけ続けてしまいそうで怖い。あんたのマボロシ見てもうて真実見つけに真っ暗な街を走ったでー。記憶の中のあんたは俺の心の中で光ってるでーピカピカやー……」物語ラストに初めて台詞ではない言葉が語られる。狂児と過ごした屋上で、去った狂児を想う。狂児の名刺に「…おったやん!」と笑う聡実くん。初見はここで良い映画を観ることができた余韻でエンドロールを眺める。

あるんだよ。人生のほんの一瞬、たった一度の出会いで簡単に人生は変わってしまう。楽しかった青春の思い出で生き延びることができる日がある。聡実くんにとって狂児は記憶の中に押し込めた、そんな青春のかけらだったのかもしれない。狂児は何考えてるか分からなかったけど、聡実くんは今日こうして中学校を卒業するんだなと思った。
そんなことを考えていたらエンドロール終わりに3年後の狂児らしき男。←分からない……最後にひっくり返されて何も分からなくなってしまった。気づいたら3回は観に行っている。地方だからね、もう上映終わったりするから…

傘を持って現れることで際立つ狂児の異質さ。聡実くんの日常に入り込んでくる違和感。噛み合っていないのに2人でカラオケに行くとしっくりくるようになってくる。屋上のシーンなんてお互いにしか見えない声色と表情で笑ってる。えっなんで……?噛み合ってないはずなのにこの2人って「この2人」でしかないんだなって思わされる。

ぱったり連絡とれなくなったのにまたふらっと現れるのよ。その電話、聡実くんも聡実くんで出るんだっていう。知らん番号なのに、狂児かもって思ったのかな。「おー久しぶり、元気そやなぁ」「負けられへんからなー」「聡実くん、カラオケ行こ?」につながるんですから。あの世界で狂児と聡実くんの暮らしは続いていく。近づいたり離れたりしながら、きっと。

この2人どうなっちゃうの〜〜?!みたいな感覚がなくて、ただただ2人の青春を眺めている感じ。その距離感とか空気がちょうどいい。あっさり淡々と進んでいくように見えて、いやいやでもヤクザと中学生だよな…と戸惑ったり、想像するよりも遥かに大きくて深い愛が垣間見えたときに笑ってしまったり、そういう幻みたいな隙間が心地よく、楽しかった。

言ってしまえば映画を楽しんでも何も整理ついてないけど、少しずつ日常に戻っている。どうにもならない悲しさと悔しさと寂しさがあることと、日常というものは、共存しうる。
日常のほんのささいなことで笑ったり、エンタメを楽しんでいる自分は、その悲しみたちを乗り越えたり忘れたりしていることと同義ではない。
だけど、だからこそ、こうやって生活は続くんだなぁと。それがどうこうではないけど、生活は続く。暮らしは続く。今までと同じ速さで時間は進み、3月31日はやってくるし、別れを告げなきゃいけない。
たったそれだけのことで、それだけのことが、やっぱりまだこんなに苦しいんだと思う。

私を日常に引き戻してくれたもののひとつに、この映画があったよ、という話。

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