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【父方ルーツ その7】 明治時代に秋田から北海道へ移住した家族の物語 後編


前編はこちらからどうぞ。

第一子こそ夭折したものの、3人の子供にも恵まれ幸せに暮らしていたであろう金治とリノ夫婦。

けれども、戸籍にはこんな記載があったのです。

『金治、明治39年7月婿養子離縁ならびにリノと協議離婚実家復籍』


「離婚」との記載を何度も見返してしまいましたが、2人はのちに北海道へ移住し私の祖父金次郎が生まれているのですから、ここは冷静に情報を整理しなければいけません。

離婚?!再婚?!


よく見ると、リノの欄にはこんな記載が。

『明治40年4月 工藤金治と婚姻届出同日受付除籍』

後藤長之助戸籍から除籍となり、離縁から9ヶ月後金治と再婚。工藤戸籍に入籍しています。

こうしてリノは後藤家から出て工藤家の嫁となり、金治も婿養子という立場ではなくなったようです。

ただその一連の経緯の中において、子供3人は後藤家の戸籍に残したままであり、当時長男長松は11歳、二女リヨは8歳、二男長二郎は5歳でした。

戸籍だけ後藤家に残したのか、それとも物理的にも離れ離れになったのか・・・

その後の記載事項から考察と仮説を立てていくことしかできませんが、少なくとも工藤後藤両家にとって大きな岐路であったに違いありません。


ついに新天地北海道へ

戸籍上の復縁から一ヶ月後の明治40年6月、金治は北海道石狩国札幌郡へ分家届出をしています。

新たな土地で心機一転、戸主金治の戸籍です。

離縁やら結婚やらと戸籍上の表現では波乱めいているものの、2人の関係において何か問題があったというわけではなく、実際のところは北海道へ移住するにあたって様々な家族の協議と準備があったのではないかと推測しています。

むしろ過酷な選択であるにも関わらず、最終的にはリノも北海道へ同行していることから、2人の絆は深いものであっただろうというのが、ひ孫である私の贔屓目見解です。

とはいえ、北海道の新天地に後藤家から分家しているわけではないということから、移住においては金治、妻リノ、家族それぞれの考えも含め一筋縄ではいかなかったのかもしれません。

そもそも片道切符の移住だったのか、それともまずは様子見のつもりだったのか…

北海道移住においては戸籍の届出時期と実際の居住時期には、年単位のタイムラグがあることもよくあることですので、さまざまな状況が想定されます。

移住といってもただ新天地に引っ越すだけの住処替えではなく、土地の開墾を伴う命懸けの入植。転籍届出よりも早いタイミングで北海道へ渡り、落ち着いた時点でようやく本籍地を変更したということは大いにありえます。

先発して金治だけが先に北海道へ渡り、状況を整えてから妻を北海道へ呼び寄せたというように離れて暮らした期間があった可能性もありますし、もしかしたら先が見えない移住故、後藤家から離縁せざるを得なかったとも考えられます。

もちろん移住の最初からふたりで共に北海道へ渡った可能性もゼロではありません。

いずれにせよ移住当初、幼い子ども3人は過酷な北海道へは同行せず、秋田に残っていた可能性が高いでしょう。

北海道と秋田では簡単に行き来できない上に、明治末期の東北農村部と北海道の開拓地において電話連絡が容易にできたはずもなく、通信手段も手紙に限られていたことでしょう。

悲しい別れを伴う重大な決断であったであろうことは想像に難くありません。

明治40年、金治は36歳リノは30歳でした。

北海道で生まれた子どもたち

明治40年、北海道を本籍地とする分家届出から2年後の明治42年、北海道で初めて産まれたのは女児スミでした。
戸籍の続柄は【長女】と記載されています。

北海道で出生届を受理されていることから、明治41年ごろには確実に妻リノも北海道に渡っていることがわかります。

ここでふと頭に浮かぶのは秋田で誕生した長女ヲトと二女リヨ。

ヲトはすでに亡くなっているものの、リヨは秋田に残してきた娘です。

分家し新しい戸籍であるとはいえ【三女】ではなく【長女】と続柄がリセットされていることがなんだか切なくもあります。

その後もリヨがこの戸籍には登場することはなく、戸籍上最初から最後までスミは【長女】でありました。


その後明治45年に私の祖父である金次郎が、さらには大正6年に弟末太郎が生まれています。

金治が後藤家の婿ではなく工藤の戸主として最初に生まれた男児は金次郎。

ここでまた一つ小さな謎が解けました。

新たな人生、自分の人生を生きる


金治が後藤家の婿だった頃、2人の息子の名前は義父長之助から「長」を当てていたけれど、北海道で生まれた最初の男児金次郎には自らの名前である金治の「金」をあてているのです。

このように息子に「金」の一字を継承していることを深読みすると、「工藤金治」としてのアイデンティティが新たな地で始まった人生と共に確立されたのではないかと思うのです。

北海道移住にともない工藤姓に戻し、さらには兄の戸籍からも分家し戸主となることでいよいよ「工藤金治」の人生が始まったのかもしれません。

金治が北海道を目指したのは独立と自由を求めていた。
そんなふうにも感じられるのです。

これはちょっと妄想がすぎるでしょうか(笑)


家族がそろう

話を戻します。
以前の記事でも触れていますが、金次郎は当初【長男】と記載されていたもが、のちに【三男】と訂正されています

これはどういうことなのか。

北海道生活も10年が経過し、新たに3人の子供に恵まれ、北海道暮らしも軌道に乗ったであろう大正6年。
秋田で生まれた本来の長男と二男が後藤長之助戸籍から除籍し、工藤金治の戸籍に入籍
しています。
これに伴い、金次郎は三男と変更されていたのです。

こうして工藤金治ファミリーは7人家族として北海道で生きていくこととなりました。

もっと早い時点で北海道に呼び寄せていたのでしょうか、それとも10年後の移住と共に戸籍の転籍も行ったのでしょうか。

それがどれほどの年月であったとしても、金治もリノも秋田に残してきた子供のことを思わない日はなかったでしょう。

秋田から北海道への移動は日本海周りの船と陸路。

北海道という未知の土地を目指すとき、幼い子供たちを連れての道中はかなり過酷なものとなるでしょう。
故に、当初は金治・リノ2人で北海道へ入植し、そこで新たな家族が生まれ、ようやく成人した息子たちを呼び寄せることとなったと考えるのが自然であるように思います。

ただ、秋田に残した子供3人のうち、二女リヨだけは後藤長之助戸籍に残ったままでした。
大正9年には秋田県同村の男性と結婚していることから、リヨは北海道移住には同行せず、両親と8歳で離れそのまま秋田に残り後藤家で暮らしていたようです。

その後生涯の中で、親子は再会することができたのでしょうか…

それは定かではありませんが、私の推測としては会うことは叶わなかったのではないかと考えています。

けれども、後日実家の母からこんな話がありました。

年賀状送付記録を確認したところ、秋田県能代市のリヨの嫁ぎ先である家とのやりとりを見つけたとのこと。
すでに息子の代の宛名となっていたようですが、父にとって従兄弟に当たるその人と、長い年月にわたり確かにやりとりは続いていたようです。
父はそこに従兄弟がいるとは知らなかったようですけれど。


ある夫婦、ある家族の物語


家督を放棄し離縁再婚を経て、幼い子供を秋田に残し北海道へ移住した金治とリノ。
並々ならぬ覚悟を持って移住した新天地北海道。

その背景には希望や開拓精神といったポジティブなものがあったかもしれませんし、自然災害や不作、飢饉などといった新天地を求めざるを得ないネガティブな事情があったのかもしれません。

北海道への移民政策は国主導によるところが大きいですが、個々それぞれにそれを選択するに至るドラマがあったのだと思います。

移住してからの生活も過酷なものであったことは容易に想像されるものです。

それでも金治とリノは絆深く北海道での生活を切り拓いていったからこそ、祖父金次郎、父、そして今ここに私がいるのです。

こうして私も先祖探しに火がつかなかったら、何も知らないままこのドラマは埋れていたことでしょう。

金治さん、リノさん、ありがとう。これからも頑張るよ。

逞しく生きた彼らの存在は確かに今も私にエールを送ってくれている、そう感じました。


続く・・・




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