◆夢を起点とした非日常の意味するもの…

夢、といっても目標や希望と同義語的に扱われる意識上のものではなく、夜見る夢、自分では何ともコントロールし難い、無意識に近い心の領域の夢のことです。

心理学においては、フロイトやユングなど、夢に着目して、精神の様相を探求してきた歴史があるようですが、夢の世界を文学、とりわけ小説において探求すると、その多くはファンタジーやSF的な扱いで、それは超現実の世界の現象、あるいは多くの人が好んで足を踏み入れることのない非日常の世界として描かれることになるようです。

しかし、先日読み終わった『ピクニック・アット・ハンギングロック』は、そんな夢に対する定説(?)とはかけ離れた、日常と地続きの夢の世界が繰り広げられる小説でした。

この小説は1967年にオーストラリアで、ジョーン・リンジーという女性によって書かれ、発行されたもので、1975年に映画化されることで、一気に「カルト的な」人気が爆発した、とのことです。

日本では1986年に劇場公開されたので、映画で知っている、という方も多いのではないかと思います。原作の発表、現地での映画化からさらに10年以上時間が開いての公開となりました。私も1986年に、東京池袋で、たしかオールナイトの3本立て(4本だったか…?)で、タルコフスキーの映画と一緒に観た記憶があります。

非常に眠かったことが一番に思い出されるのですが、あれから30年以上経つのに、主人公の容姿と、オーストラリアの圧倒的な自然の姿は、今でもふと思い出すことがあります。物語は、寄宿学校に暮らす女の子と先生が、オーストラリアの岩山、ハンギングロックにピクニックに出かけ、そこで消息を絶つ、という事件から始まります。

この事件に似た事件が現実にあったかどうかは、現在でも意見の分かれるところのようですが、それよりも大事な事実として挙げられるのは、この物語が、著者であるリンジーが実際に自分がみた夢を元に書いた物語であるということです。(70歳のときにみた夢を元に、一か月くらいで書いた、とのことです@@!)

そして、その起点となる事件そのものの謎や意味するところよりもむしろ、その事件が起こった後の、学校やその周辺に暮らす人々の人生そのものが、少しずつ、その事件を起点として、ゆっくと、しかし確実に、変容していく様こそが、この物語のもつ圧倒的なリアリティなのだと思われます。

そこには、悲劇もあり、また思いがけない幸福もあり、同時に変わることのない習慣や自然もあり、まさに現実の世界に生きる様々な人が織りなす個々の人生そのものです。そしてその一人一人の人生が、他と隔絶されて存在するものではなく、それぞれの人生が個性的なものであるように、その関係性もまた、唯一無二のタイミングとバランスでもって織りなされ、相互に運命づけられているのに、当事者たちはその一面しか見ることはなく、それがまた悲劇でもあり、幸運でもあり…。

著者は、それを特別意味づけたり、ジャッジすることなく、ただあるがままに織りなされていく、運命としか呼べないような人の生の有様を、まるで繊細な自然を描写するように綴っています。それが、誰一人の人生も、平凡で書くに値しないものではないとでも言うように、丁寧に…。

ともすれば、センセーショナルな謎解きに終始しそうな素材を用いながら、これだけ読む側の日常の意識に食い込んでくる作品も稀だと思います。そして謎として残る事件の部分も含めて、人と人、人と自然、あるいは神や運命といったさらに不可解な命題に対して、明確な形で提示し難いけれど、たしかに感じる怖れや憧れ、隠された欲望、美しいものへの憧憬など、生きていく毎日の時間のなかで、静かに無意識のうちに人の心の奥深くに沈殿していく魂を、そのままの肌触りが想起される言葉で綴っているように感じられます。

文学というものの究極的な方向性として、言葉にし難いものを言葉にしようとする欲望に突き動かされているものだとすれば、この小説はまさに、著者が意識していたかどうかは分かりませんが、永遠に言葉によって定義し難い、人間が自分でも気づかないうちに選んでいる(選ばされている)人生の不思議さ、儚さ、そして美しさを、できるだけ真実に近い形で提示しているのではないかと思うのです。

私は確実にまた、再びこのハンギングロックへ戻ってくる予感を抱えて本を閉じたのでした。人生が続いていく限り…。




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