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★『ベル・ジャー』シルヴィア・プラス

他者の力に怯え、自分の存在価値に疑いをもって傷ついた若者の、
挫折と再生までの物語

先日読み終わり、ここでも書評で紹介した短篇集、メアリ・ヴェントゥーラと第九大国の作者、シルヴィア・プラスの長篇作品が入手できたので読んでみた。

この作品は、シルヴィア・プラス唯一の長篇小説でありながら、同時に自伝的な内容であることから、彼女の代名詞のような位置づけの作品ともされている。

物語は一人の若い女性が社会に出て行く時期の葛藤と成長、そして挫折、さらに再生までを描いている。

『ベル・ジャー』シルヴィア・プラス

物語の語り手、ニューイングランド生まれの「私」=エスター・グリーンウッドは、成績優秀な女子学生で、彼女はあるファッション雑誌が主催したコンテストで賞を取り、その副賞としてニューヨークで一か月間、その雑誌社でゲスト・エディターの仕事をさせてもらえるというチャンスを得る。

今でいう、就職活動の一環としてのインターンシップ、あるいはどちらかといえば企業側に主導権のあるSNS広告戦略の一つであり、そこでインフルエンサーとして期待され集められた若い女性たちへの企業側の活動援助、と似ているかもしれない。

エスターは他に選ばれた11人の女の子とともにホテル暮らしをしながら、自らのキャリアを築くために活動する…はずだった。
しかし、その大きなチャンスの中で彼女は次第に、逆に自分の人生の舵の取り方を見失っていく。

ニューヨークに来るまでの彼女の野心は、自身が自覚している範囲では明確だった。
エスターは「生まれてからずっと気が狂ったみたいに、勉強したり読書をしたり、何かを書いて頑張るのが自分のしたいことだと思っていた」。

そして「北部で一番優秀な大学院入学と卒業までの奨学金も手にしていた。
そして今は知的で有名なファッション雑誌の一番優秀なエディターの元で修業だってしている」というのに、「私は、荷馬車の愚鈍な馬みたいに立ち止まってばかりいる」。

キャリア構築の面では、現時点でこれ以上ないほど前途洋々な彼女なのに、その足をとどめているもの、不安にさせているものは、一体何なのか──。
物語はその在り処を、エスターが体験した様々な出来事と、彼女の内面の声を拾いながら語っていく。


この物語が描いていること、それは端的にいえば、まだ人生が始まったばかりの一人の女性の心身に生じた、自分にとって容易に相容れない二つの世界の不調和だった。

それは自然と都市、肉体と精神、他者と自己、本音と建て前、男と女、などであり、それまでの自分自身が馴染んでいた世界と、あらたに彼女の前に開けた未知の世界との違和であり対立だ。

さらにそれだけではなく、それ以上に深刻な違和あるいは落差として彼女が直面したのが、新しい世界に半歩踏み出したときに感じた、自分自身に対する違和であり、不安だった。
この物語は内と外に生じたそれらの違和を、自身で上手く消化して日常生活に落とし込めずに葛藤する物語、といえるのかもしれない。

エスターは様々な場面で違和を感じ続ける。
それはたとえば、エスターの女性としての先輩である母親や教師、支援者たちの多くが、彼女たちが望む女性像にエスターを当てはめようとするときに起こる違和だった。
または、恋愛関係において相手の男性に対して、そして結婚によって家庭を築き、出産することそのものへの違和感としてあらわれる。

彼女は自身にとって違和感のあるそれらの役回りを、文字通り生死をかけて拒絶することで、未来を切り開こうとする。
ただ、彼女の本当の欠落は、外部から与えられた自己像を拒否しても、自身の内から積極的に肯定できる自己像を、なかなか掴むことが出来ない所にあった。


このように、ここで描かれたエスターの物語は、小説の中でも、古今東西多くそのテーマとして取り上げられてきただろうし、それ以上に、著者自身を筆頭に現実の幾世代もの女性の人生において、今なお続く数えきれないほど存在する若い時代の葛藤であり成長の物語だ。

私自身も、ここに書かれている内容に関して、かなりの既視感と苦い郷愁を感じたし、多くの人が通る道であり、社会に出て行こうとする若者には、よくある出来事といえば、その通りだと思う。
青春とはかくも滑稽で未熟な時期なのだということを、この物語は思い出させてくれる、ともいえるだろう。

しかしこの物語が、そのような、著者と読者との思い出の共有だけに留まるとしたら、この作品が書かれた意味も、今なお読まれる理由としても不十分なのかもしれない。

この物語にそれ以上の何かがあるとすれば、それはきっと、よくある通過儀礼の記録というだけでなく、この物語だけがもつ強いメッセージ、あるいは未来に対して持つ意味のある問いかけと、その答えにあるのだと思う。

この物語の存在する価値、それは第一に、この物語を残す勇気を著者が持ったこと、そしてそれをフィクションという形で、未来を生きる若者に向けて語ったことだと思う。

これがもし、ノンフィクションとして、あるいは日記という形での記録で残ったとしたら、それは作者の個人的な問題として、あるいは1950年代の若い女性の置かれた特有の状況、いわゆるフェミニズムの問題として、その受け取られ方は少なからず限定されたかもしれない。

しかし──著者の経験を素材としていたとしても──フィクションの形でドラマとして描くことで、シルヴィア・プラスはおそらく、作者である自分よりも、主人公・エスターに、より未来に向かって踏み出す内的な力を与えることができたのではないだろうか。

これがフィクション、物語の力だと思う。
作者でさえ予想しなかったかもしれない強い力で、まだ見ぬ未知の世界へと導いていく。

作者は、事柄のもつセンセーショナルな表面を露悪的に語ってその部分で読者の興味を引こうとするのではなく、その事柄の奥に隠れている人物の内面を掘り下げて描くことで、その因果を明らかにしようとしている。

そうすることで、作者が生きた作者自身の人生よりも、彼女が生み出した人物のほうが、より力を持ち、それをリアルなこととして、読者に感じさせてくれている。
シルヴィア・プラスは、この作品を仕上げて間もなく自死してしまうが、上記の理由で、それがこの物語自体の価値を失わせることだとは決して思えない。


もう一つ、この作品のもつ輝きという点でいえることは、作者、そしてエスターが、真実を知る勇気を持ち続け、そこに沿って行動することで最終的に自身が納得できる道に一歩踏み出せたところまで描かれている点だ。

物語の最初でエスターはこう語る。

 私は誰かの決定的な瞬間に立ち会うのが好きだ。
 交通事故やけんか、アルコール漬けになった標本の赤ん坊が、もしそこに
 あったら、記憶から消せなくなるまで熱中して見入ってしまうだろう。
 私はそうやって今まで多くのことを学んできた。
 ショックを受けたり具合が悪くなることもあったけれど、絶対に懲りたり
 せず、自分に言い聞かせた。
 私は、これからもこうやって物事の真実を掴んでいくんだと。
 (本文p22)

『ベル・ジャー』シルヴィア・プラス

自分では賢くて気が利いていると信じたことが、何よりも自分の底の浅さを証明する考えや行為であったことに、大抵の人は過ぎ去った後に思い当たる。(思い当たっただけでも上等、といえるのかもしれないが)

あるいは、傷ついたのは自分だと固く信じていたのに、実際はその何十倍も、周りの人を傷つけ、ないがしろにしていたことに気づく人は幸いだと思う。(気づかなかったほうが、新たな傷を抱えるリスクも罪悪感も感じなくてよかったのかもしれないが)

少なくとも、他者を傷つけ、自身の夢や欲望に溺れることが、青春の特権、若者の勲章だと開き直っている人間に対してよりも、物事の真実の姿から眼をそらすことができず、他者の力に怯え、自分の存在価値に疑いをもって傷ついている人間のほうに、個人的には共感を覚える。

この物語の主人公、エスターという女の子も、エスターを生み出した作者であるプラスも、そういうタイプの人間なのだと思う。
そして、そういう人間にしか、物事の本質、真実は目の前に開かれないのではないだろうか。

彼女は、この物語を語ることで、自身の底にある本質を掴もうと藻掻き、自身のありのままを微細に言葉に置き換えて対象化していった。
言い訳も美化もすることなく。

この作品の表題になっている「ベル・ジャー」とは、実験などで使われる釣鐘型のガラスの覆いのことで、物語の中でエスターが、自分がこの「ベル・ジャー」の中に閉じ込められている、というイメージとして使われている。

 ガラスの覆いに閉じこめられて、私は座っている。
 自分の体から漂う腐ったにおいにむせながら。(中略)
 ベル・ジャーの中で、空気が私を厚くとりまいて、身動きすらできなかっ
 た。(本文p254)

『ベル・ジャー』シルヴィア・プラス

外の世界と断絶しているわけではないのに、自身が快く思わない「腐った」自分の中にとどまるイメージ、そして、そこから出る手掛かりをつかめない苛立ちを象徴するイメージとして、「ベル・ジャー」という形象が使われているようだ。

自分では自身の感情や思考に従って、主体的に決断、選択しているつもりでも、やがて自分でどうしようもないほど、自身の本意ではない状況に陥りそこから抜け出し難くなってしまった経験は、誰にでも一度や二度、あると思う。

多くの人は、自分で主体的に自身の行為や生き方を選んでいるという意識をもって生活していると思う。
しかし、それが本当に、自分が望み、主体的に選んだものであるかどうかは、それが破綻したときに初めて分かるのかもしれない。

上手くいかないことを他者や外部的環境のせいにできるほどの無邪気な自己愛を、幸運にも与えられている人には、この物語は退屈すぎるだろうし、エスターのような女性に共感することはないだろう。

しかしシルヴィア・プラスは、エスターが自分で立ち直る手掛かりを掴むまで、辛抱強く出口を探し続け、そのチャンスを待ちつづけた。

そしてそのチャンスは、エスターが自ら選んで実行した行為として、そしてもう一つは、とてもささやかなもので、もしかしたら彼女自身が気づいていないかもしれないほど、控えめなものだったが、それは確実に彼女にとって親和性のある外的世界の発見だった。

 灰色の雲のとばりから太陽が顔を出し、まだ誰も踏み入れていない雪の坂
 道に、夏の日差しのように強く輝いていた。
 雪かきの手を止めて、その清らかな果てしない広がりを眺めながら、私は
 腰くらいまでの洪水に浸かる木々や草原を見たときみたいに深く感動し
 て、心が震えた──今までの世界の秩序がわずかにずれ、新しい姿を見せ
 てくれたようだった。(本文p328)

『ベル・ジャー』シルヴィア・プラス

物語は、エスターが新しい一歩を踏み出したところで終わっているので、それが彼女にとって本当の再生の道なのかどうかは読者の意見が分かれるところかもしれないけれど。


31歳という若さで、作者・シルヴィア・プラスが亡くなったことはとても残念だと感じる。
そしてこの物語の最後も、再生、というにはまだ仄暗い程度の明るさしか感じられないが、たとえ再び「ベル・ジャー」という透明な檻に閉じこめられたとしても、また彼女はそこから飛び立つ力を見出そうとするのではないかと思える。

もし…という仮定に意味が無いことは承知していても、もしプラスが『ベル・ジャー』の後に、その後のエスターの物語を描いたとしたら、さらに女性を勇気づけてくれる作品になったと思う。

シルヴィア・プラスは、自身が乗り越えようとして乗り越え難かった人生の困難さを、この物語を描くことによって、それを乗り越えるチャンスがあることを示してくれた。
そのようなヴィジョンを作品として残してくれたことに心から感謝したい。

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