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★『メアリ・ヴェントゥーラと第九王国 シルヴィア・プラス短篇集』シルヴィア・プラス

「否定の王国、凍りついた王国」の肌ざわりをたしかめながら、
そこからの脱出を試みる

久々に、魂を削って作品を生み出すタイプの作家の作品を読んだ。

シルヴィア・プラスはマサチューセッツ州ボストン生まれのアメリカの女性作家だ。1932年に生まれ、1963年2月に英国ロンドンで亡くなった。
わずか30年の生涯。自死だった。

この本との出会いも偶然で、雑誌の企画でその年のオススメベスト3を挙げるコーナーを読んでいて、ほんの100字ちょっとの短評ながら、読みたいと思える書評を目にしてのことだった。
(作家の新元良一さんのオススメでした)

『メアリ・ヴェントゥーラと第九王国 シルヴィア・プラス短篇集』

訳者の柴田元幸さんによると、シルヴィア・プラスは、作家としての出発は詩作品であり、まとまった作品としては死後に出版された『エアリアル』(1965年)があり、小説も長篇小説『ベル・ジャー』(1963年)が最も有名な作品であるようだ。

短篇小説も生前いくつか発表され、雑誌等に掲載されたらしいが、代表作、と数えられるほど、彼女の残した仕事の中心ではないし、その人生の短さ故もあり、生前、必ずしも注目される功績ではなかったようだ。

しかし──個人的な感想では、本当に久々に、この作家の言葉をもっと読んでみたい、そう心から思える短篇集だった。
(彼女の詩や上記の長篇をまだ読んでいないので、それらを読むと、また違った感想、別の位置づけになるのかもしれないが…)

この本には、全部で8つの短篇作品が収められており、そのうちの一つは「これでいいのだスーツ」という童話で、この部分だけ、紙質もタイポグラフィーも変えて印刷されているので、ユーモラスな内容もあいまって「箸休め」という感じだった。

これ、だれか絵本にしてくれませんか…と思えるほど面白かった。
童話にありがちな物語展開なのかもしれないが、ビジュアル的にもきっと子どもたちも喜んでくれそうなお話だと思う。

ただ、個人的には訳題の「これでいいのだ」という言葉にも、私の心の師匠・赤塚不二夫先生が思い出され、作品の内容とは全く関係ないところでも心に残る作品でもあった。

しかしこの作品以外は、やはり、結末がよい話でも、悪い話でも、読んでいる途中は、おおむね悪い予感しかしなかった。
動悸は早く、息が浅くなるような切羽詰まった気持ちで読み進める感じはミステリーを読んでいるのと近いのだが、たとえストーリーとしての結末を知り、ああ、そうだったのか、と思っても、さらに「人間」という最大の謎の深さがそれ以上の大きさで心に迫ってくる作品だ。


物語の素材の部分は、多くは作家自身の実際の体験による部分が大きいらしいが、それにもかかわらず作家が書こうとした世界は、私たちが普通に「世界」と呼べる場所との様々な繋がりを前提と「していない」世界であるかのようだ。

私たちが生きる世界はおおむね、ある法則や摂理によって動き、予測可能な悲劇や喜劇にあふれ、そこで生きる人間は、それに何らかのコミットをしながら生きている。
たとえそれが自分の望んでいない世界だとしても、望んでいないからこその葛藤があり、反駁があり、あきらめがある。

しかし、シルヴィア・プラスの描く世界、彼女の生み出した物語は、それが悲劇だろうが、喜劇だろうが、ありふれた日常の風景だろうが、手で触れるリアルな現実とは切り離れたところにあるもう一つの世界──まるで夢の世界、一人の人間の意識・無意識の中にだけ存在するパラレルワールド・アナザーワールド──そんな時空を描いているかのようだ。

そこには、怖れや不安、怒り、憎しみ、といった負の情念さえも、無効になるような、そんな徹底的に切り離された「否定の世界」が横たわり、その存在そのものにおののく人間の姿が描かれる。

そしてそちらの世界こそが、ある摂理をもち、ある種の人間にとってのリアルな現実なのではないかと問いかけてくる。
ここに収められた物語は、その内容の如何にかかわらず、彼女がおそらく実感をもって感じていた世界の肌触りを語った物語だ。

それが最もよく表れているのが、最後から二番目に語られた「ジョニー・パニックの夢聖書」という短篇だと思う。
これも作者自身がうつ病を発症して入院した病院での体験が元になっていると思われるのだが、精神科病棟で秘書補佐(今でいう医療クラークか)として働く女性が、患者のカルテを見て、その病状(夢)に異常に興味を持ち、やがては夜人目を忍んで読みふける、という物語だ。

精神を病んだ人たちの夢を秘書として書きとめていくうちに、夢こそが、その人の本質と深く結びついていることを知る。
夢=人間の内側に広がるその人の真実を象徴するタームとして彼女はそれを「ジョニー・パニック」と呼ぶのだが、やがて彼女も自身の「ジョニー・パニック」と直面することになる。
結末はやや寓話的だが、それだけにじわじわと怖い作品だ。


シルヴィア・プラスの生み出したこれらの物語は、彼女の選んだ素材としてのストーリーや、その流れ着いた先の結末の如何にかかわらず、それらのことの目的や必要、そして好悪や善悪を越えて、人間が自身でコントロールすることも、判断することすら難しい、ある空間を描こうとした物語だと思う。

そんなシルヴィア・プラスらしい作品は上記の「ジョニー・パニック」だと思うが、訳者の柴田さんは、やはり病院を舞台とした死の現実を軽快な筆致で描いた「ブロッサム・ストリートの娘たち」を、彼女のベスト短篇作品として推奨されている。(作家本人も、自信作だと思っていたそうだ)。

しかし私の個人的な気持ちとしては、標題にもなっていて、この本の冒頭を飾っている作品「メアリ・ヴェントゥーラと第九王国」が、完成度としても、読後感としてもピカ一だと思う。
この作品だけでも、読む価値がある、と言い切りたい。
(おそらくそれは、にわかファンがアーチストの代表作に魅せられるのと似ていて、一番キャッチ―で一番ヒットするような、ある意味分かりやすく大衆性をもった作品だからだと思うのだけれど、その分を差し引てもとてもよい作品だと思う)

知らないうちに運命のレールに乗せられた少女が、それが「第九王国」=「否定の王国、凍りついた王国」へ向かう途だと知ったとき、如何に自らの運命と向き合うのか──この作品は、作家の死後、つい最近(2019年)発見されたとのことだが、発見されて本当によかったと思う。

自死、という結末を迎えたシルヴィア・プラスの人生だったが、彼女がこの物語を残したことは、少なくとも、この物語を読む人の希望であり、慰めになるのではないだろうか。

読んであまり感心しなかった作品の書評も書き難いが(というか書かないが)、大きく心を動かされた作品について書くのも難しい。
いくら言葉を重ねても、その素晴らしさを伝えることは困難だ。
しかしそんな、言葉にし難い輝きをもった物語に強く惹かれるし、そういう物語こそ、これからも読んでいきたいと思う。

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