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 散歩していたときのことです。
 ふいに、ギィッ・・・ギィッ・・・と、短いうめき声が耳を刺しました。
 裏っ返しになった蝉でした。石灰をまぶしたよう腹、針金のように細い脚、使い古した油のような羽、壊れたスピーカーのような奇妙な鳴き声。子供のころは、あんなに宝石のように輝いて見えた蝉も、いまではただの気持ちの悪い虫にしか見えませんでした。
 まぬけなやつだな。
 ぼくは、ぷいと一度横目でそいつを見やって、通り過ぎました。しかし、あの断末魔のようなうめき声。どこかで聞き覚えのあるような・・・すると、急に胸の底に沈んでいた記憶が、炭酸水のようにぱちぱちと浮かび上がってきました。

 そうだ。この声は、虫かごの中の蝉だ。昔、じいちゃんとよく虫捕りに行ってたっけ。そのあと、捕まえた虫たち(蝉、蝶、トンボ、バッタ)なんかを、一緒くたに虫かごの中に入れて・・・だいたいいつも、蝶が真っ先に羽を食い破られて・・・かごの隙間からはみ出している、蝉の足をつかんでやると、ばたばたしながらよく鳴いたなぁ。それをプチンとちぎってやる感覚・・・
 苦虫をかみつぶしたような気分。しかし、子供の頃のことですし、いまさらあの蝉一匹を助けてやったところで、どうなるというのでしょうか。けれども、やっぱりとげとげした引っ付き虫のような罪悪感が、ちくちくと肌を刺しました。

「ああ!神父様。ぼくはいったいどうしたらよいのでしょうか?」
「ああ。また君かい。今度は何だい。」
「実は・・・」
「ああぁぁっ。」と迷惑そうに声を上げ、「もうわかってるから。いちいち説明なんてしなくていいんだよ。しかし、私が言うことなんて何もありゃしないのさ。もうあんたは、電車に乗っちまってんだよ。」
「いや、乗ってませんけど・・・」
「いいや、乗ってるね。電車じゃなくてもいいよ。バスでも、飛行機でも、結局行きつく先は同じなのさ。私がとやかく言ったところで、もう決まってることなんだよ。」
「いや、違います。ぼくは迷っているんです。」
「はあ・・・」と深くため息をつき、「いいかい。あんたは迷路の中にいるかと思っているかもしれないが、実際のところそうじゃないんだよ。終着点が決まっている乗り物に、ぼけっとした間抜け面で、迷っている妄想をしているだけなのさ。一度医者にでも、診てもらったほうがいいんじゃないのかい?」
「うるさい!ぼくは病気なんかじゃない。下手に出てりゃいい気になりやがって。このクソ野郎。」
「まったく困ったお人だねえ。自分の思い通りにならなかったら、すぐわめき散らす。もういいかな。私は、本当の迷える子羊たちのために、せっせと働かなきゃならんのだよ。だいたい、君たちは無宗教だと言っておきながら、困ったときに呼び出すのはやめておくれよ。都合のいいように使われるのは我慢ならないくせに、人のことは都合のいいように使いやがる。もう二度と呼ぶんじゃないよ。じゃあね。」

 そう吐き捨てると、ふっと水が蒸発するようにふっと消え去ってしまいました。
 畜生!いったいどうして・・・決まっているだって。ふざけるな。分かったような口をききやがって。

 ギィ・・・ギィ・・・

 ああ、もう!うるさいな。黙っててくれよ。こっちは今お前のことで

 ギィ・・・ギィ・・・

 うるさいなあ!もうわかったよ。助ければいいんだろ。こんなくだらないことで悩むのはもうたくさんだ。
 ぼくは、そいつを靴で何回かこづいてやり、表向きにしてやりました。ほっと胸をなでおろし、歩き出そうとすると

 ギィ・・・ギィ・・・

 ゆっくり振り向くと、またそいつは裏っ返しになっていました。まるで、ぼくのことをあざわらい、侮蔑しているようでした。ぼくは真っ赤な風船になって、ぱんぱんになるまでみるみる膨れ上がります。
 もういい。せっかく助けてやったのに。バカにしやがって。そんなに死にたいなら、望み通りにしてやる。どうせ七日間の命なんだ。数日早まったところで、たいして変わりはしないさ!

 くるりと素早く振り返り、そいつを踏みつぶしてやろうとすると、とつぜん、「ア゛ァ゛」としわがれた干し肉のような声が、後ろから聞こえてきました。
 反射的に、すばやく声のする方向を見ました。マンションの階段の踊り場の壁からひょっこりと首をつき出した、白髪の老婆がひっそりとたたずんでいます。老婆の眼は、ダム穴のようにどこまでも深く、なにもかもを呑み込んでしまうようでした。
 ぼくの激しく暴れまわっていた感情も、風船の空気がぬけるように急速に縮こまってしまいました。

 走りました。
 焼けつくような光の束が降り注いでいました。絡みつくような熱気が、のどの奥を絞めあげ、ねばっこい唾液が口いっぱいに広がりました。
 老婆の眼が、べちゃべちゃと地面を這いずり回り、どこまでも影のように追いかけてきます。
 「ギィ・・・ギィ・・・」と、蝉が元気に鳴いていました。
 
 
 

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