デヴィッド・フィンチャーと実存主義

−−『セブン』『ゲーム』『ファイト・クラブ』と、あなたの3部作はストーリーこそ全部違う人が書いてますが、通底する強烈なメッセージがありますね。

【フィンチャー】 
んー。でも政治的メッセージじゃない。もっと個人的で……。

−−実存主義?

【フィンチャー】 
うん。まさにそれだ! オレが魅了されるドラマは「なぜ我々はここにいるのか」「何のために我々は生きるのか」という問いを突きつける話なんだよ。

『映画秘宝』インタビュー傑作選10 デイヴィッド・フィンチャー 『ファイト・クラブ』の監督が撮った、『ホーム・アローン』が裸足で逃げ出す母娘対強盗の攻防戦『パニック・ルーム』と、ハリウッド版“ファイト|映画秘宝公式note


デヴィッド・フィンチャーのフィルモグラフィを概観しながら、彼のストーリー的なテーマとして重要と思われる『実存主義』と各作品のあらすじとの符合を、つらつらと書いていくnoteです。映像技術の面には言及していません。
あと最初に言い訳しておきます。
雑記です!大してまとまってません!

実存主義

浅学な身の上(いや謙遜でもなんでもなくマジ)であるので、非常に雑な認識であるとは思うが、実存主義とは「人間の生きる意味を、自身と世界との関係性の中で見出し、決定していく」ものであると捉えている。

道具は本質(明確な目的・指向性)を前提に世界に産み出され存在している事物だが、人間はそうではない(宗教はその部分を規定し導こうとしてきたが、ヨーロッパにおける教会の欺瞞や近代科学技術の発展に伴い、市民にも『神』への疑いが広がりはじめた)。
人間は、某かの規定(≒神との契約)のうえで形成され・産み出されたものではなく、ただ存在しているだけの事物である……サルトルの提唱した“実存は本質に先立つ”とはこういった前提のことを指しているのではないか。

しかし、実存主義を受け入れられたとしても、自らの生に『意味』を希求してしまう人間の心理(精神のはたらき)が根絶できるわけではない。
神の存在しない理不尽で混沌とした世界に投げ込まれた人間は、どう生きるべきなのか。

実存主義はそこで「人間の本質とは、世界との関係性(状況)の中で決断することによって形成される」と説く。
(そして、ここで重要になってくるのが『自由意志』であると思う)

フィンチャーの作風

フィンチャーの作品群に共通する筋立てを纏めてしまうならば、
「精神的な停滞や諦念を抱えている主人公が、事件や試練を通して、自己の存在を再定義する物語」
と言えると思う。
この物語構造は、アメリカ製のエンターテイメント映画に広く採用されている『三幕構成』と親和性が高いので「フィンチャーに限らずアメリカ映画って大体そうなんじゃないの?」という最もなツッコミも入りそうだが、フィンチャーの作品ほど『実存主義』の概念が前景化しているものは、実はそんなに無いと思う。同じような筋立てでも、アメリカ映画は宗教的なモチーフに帰着することも多いので。

フィルモグラフィ概観

以下、各作品のあらすじ、もしくは作中の要素と実存主義との照応を箇条書きで記載していく。

『エイリアン3』
様々なトラブルがあった作品であり、フィンチャー自身も嫌っているので省略。

『セブン』
優秀な刑事サマセットは定年の日を待ち焦がれていた。
犯罪と汚職に染まり切った街(≒世界)に絶望していたからだ。
しかし、彼の意思をまるで(最悪な形で)代弁するかのような連続殺人が発生する。
犯人は『七つの大罪』になぞらえ、被害者を「断罪」していく。
無知だが血気盛んなミルズと善良で聡明なその妻トレーシーとの交流、そして事件の悲劇的な幕切れを体験することによって、サマセットは引退を撤回する。

ヘミングウェイは言った。
“この世界は素晴らしい。闘う価値がある” と。
後半に同意する

『ゲーム』
投資銀行の社長ニコラスは、優秀ではあるがその内面は孤独だった。
彼は48歳の誕生日に『CRS』という会社の“ゲーム”を弟から持ちかけられる。
それは生死の境を彷徨うほどの体験を強いられるものだった。
果たして、この“ゲーム”とは何なのか?
驚きの結末と共に、物語は、彼の生存本能や初期衝動を前景化していく。

『ファイト・クラブ』
この作品に関しては説明不要だと思う。
物質主義・資本主義による消費社会において、個人がいかに洗脳され、搾取されているのかを苛烈に暴き立てる。
とはいえ、様々な映像テクニックや倒錯した語り口によって相対化されている要素も多く、額面通りに受け取るわけにはいかない箇所も多い。

俺たちはテレビによって洗脳されてきた。
「いつかは億万長者になれる」「スターになれる」と。
しかし、そんなものは嘘っぱちだ! 
俺はいま、本当に怒ってる!

この台詞を言っているのはブラッド・ピット。どこまでも人を食った映画なのである。
(ただ、フィンチャーの消費社会への怒り自体は本物であると思う。原作からより過激な方向へ改変した事実や、インタビューなどの発言から考えるに)

『パニック・ルーム』
公開当時見たきりで覚えてないので省略。
ただ、上記に引用したインタビューによると“純粋に映像的な動機”で制作された作品であるらしい。

『ゾディアック』
この作品はやや異色かも知れない。長年の精緻な取材と徹底したリアリズムによる「地味」な作品であり、物語的な誇張は抑制されている。
当時、事件の近隣に住んでいたフィンチャーにとって、少年時代のトラウマと言うべき題材であったらしい。
取材対象者(事件の生存者も含む)への配慮も為されており『ファイト・クラブ』の意地の悪さとは対極にある作品といえるかもしれない。
とはいえ『迷宮入り事件』を実存的なモチーフとして解釈することも可能だと思う。事件との関わりによって否応なく人生を乱されてしまった人々の姿は『神なき世界』に投げ込まれた世界の人々の変奏ともいえるのではないだろうか

『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』
公開当時以来見返していないので省略。

『ソーシャルネットワーク』
最先端の事象を描いているが、物語は非常に古典的。
金も名声も得た傲慢な主人公が最も欲していたのは、実は非常にプリミティヴなものだった。
フィンチャーにとっては父親との絆の象徴でもある『市民ケーン』の現代版といえる。
過去作と違うのは、主人公は社会的に満たされた状態でスタートし、終盤近くまでそれはほとんど変わらないという点だろう。マークは自信をもって『決定』を繰り返していく。
しかし、社会との摩擦の果てに(自分にとって実は)大事なものを見出すという筋立て自体は、他作と共通している。

『ドラゴンタトゥーの女』
フィンチャーは原作およびこの物語に対して、「自分が持ち込んだ企画ではなく雇われただけ」
「スティーブン・ザイリアンの脚本に惹かれた」
「原作はレッドヘリングが多い。ミステリーや猟奇殺人のディテールではなく、主人公2人の関係性とその変化に興味があった」
「男性社会の中で抑圧されサヴァイヴしてきた女性が、信頼できる男性と出会い心を開いていく過程、そしてその結果について描きたかった」
と語っている。
実際、映画は、リスベットが自分の立ち位置を非常に切ない形で悟ることによって終わる。

『ゴーン・ガール』
この作品は実際のところ、エイミーの変遷とその決断の物語だと思うが、全体はニックの視点でサンドされている。
OPとEDに映されるのは、ニックのモノローグであり、彼がエイミーの頭と顔を見つめているショットである。

今作は、社会科学的な内容でもあると思う。
人間は、社会を運営し他者とコミュニケーションを取るにあたって、その場その場で仮面を付け替えながら生活していく。
要は「適度に嘘を吐きながら他者との距離を測る」ひいては「社会から要請される役割を上手く演じた者が『勝者』」となる、共存(もしくは自己の生存)のための、一種のゲームを行っているわけだ。
薄ら寒い話ではあるが、他者と完全にわかり合うことなど不可能な以上、切実な必要悪というべきかもしれない。
いわゆる『ネット社会』において、そういったゲーム性(個人の心情よりも大衆へのパフォーマンスが重視される傾向)が加速していると捉えるか、今も昔も変わらないと捉えるかは人それぞれだとして、今作が鮮烈に暴き立てているのはアンフェアなプレイヤーの存在だ。
男性優位社会。つまり、社会的な下駄を履き現行の体制に胡座をかいている男達のことである。
今作は優れたミステリーでもあり、フェミニズム的ピカレスクロマンでもある。

しかし、原作者であり映画の脚本も担当したギリアン・フリンの真の慧眼は『社会的な他者性』の畢竟ともいえる『夫婦の物語』としてまとめ上げた後半の展開にある。
それはつまり『夫婦』(社会における男女)の実存についての物語であるということだ。

“アメイジング”な女として努力し続けたエイミーに対し、ニックは良きパートナーである努力を怠っていた。
プレイヤーとして対等でなくなったニックをエイミーは狡猾な方法で陥れる。
しかしエイミーは、当初の計画においては本当に自殺するつもりだった。エイミーのニックに対する『愛情』自体は偽りではない。
ニックは作中の事件およびパフォーマーとしての習熟と上達によって、エイミーに見直され、エピローグに至ってはプレイヤーとして『結婚』と『夫婦生活』を学ぶに至る。

「一体なんのつもりなんだ! このクソ女!」

「あなたはクソ女と結婚した。
クソ女に好かれようと装ってた自分が好きだったはず。
私は怯まない。クソ女だから。
あなたのために殺した。私だからできたの。
他の平凡な女で満足できる?
いいえ、できるわけない」

「確かに僕は君を愛した。
けれど今の僕らは憎み合い、支配し合おうとし、互いを苦しめるばかりじゃないか!」

「それが結婚よ」

「僕らは心が通じ合っている。
お互いに誠実なんです。
共犯者のように」

何を考えてる?
どう感じてる?
僕らはどうなってしまった。
どうなっていくんだ?

もちろん不穏な結末ではある。しかし、ニック側のアンハッピーな面ばかりを見るわけにはいかない。
無神経だった点を改め、パートナーを慮ることを覚えたニックは、エイミーにとっても世間にとっても『良き夫』となったのだから。

『Mank』
怠惰で不本意な人生を積み上げてきた男が、社会(職業意識と政治)との摩擦を経て、自分が自分であるために具体的な行動を起こす。
父親の遺稿を映像化していることもあって、実際のところ非常にストレートでハートフルな物語であったと思う。

『ザ・キラー』
こちらに雑記あり

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