絶対主義《シュプレマティスム》とはなにか。講義メモ。


絶対主義の純粋な抽象を見て改めて感じた事は、わかる必要はないということだった。
私が過去から現在にかけて考えていることは、言葉で事実や脳内の全てを伝えることができるのなら、絵画や彫刻などのファインアート含め何かを作る人間である必要が果たして自分にはあるのかということだ。
ただし、脳内にあるものを外に出す事は必要である。講義内でも仰っていたように、アウトプットしなければその脳内にあるものは無いのと同じだからである。
言葉で聞いて、「わからない」となるのは、つまり共感や理解が出来る程の言葉がこの世にないからだ。
だからこそ、このような様式が生まれるのだろう。
私が考えるに、そこにあるのは表現方法の違いだけだ。言葉で全てを表せるものであるなら言葉で表すべきであり、そうでない概念的で抽象的なものは何か個人の表現方法を用いるべきだ。
それを徹底的に行った絵画様式が、絶対主義であるように思う。
絶対主義は、現実との癒着を排除した絶対的で純粋な抽象であり、余白を余白でなく要素として扱い、全てを全ての中のひとつとして確立させた様式だ。
これは、絵画の様式のひとつではなく、一種の哲学であるように思う。
所謂、「考えるな、感じろ。」の域であり、事実よりも事実らしく有るこれらを鑑賞する時に必要なのは、「感覚」なのだろう。
絶対主義の絵画達は、対象を幾何学模様など簡易的にしている。
それらの幾何学模様は純粋性の現れであり、それら何か一つの要素は、ズレたり、サイズが変わったりするだけで、作り手のコンセプトや思考が壊れてしまう様なものなのだろうと考えたが、そうでない場合もきっと存在しており、それを含め現実よりも現実的な絵画様式なのだろう。
また、キャンバスにただ黒い正方形が描かれた絵画が絵画として成り立つかと言われると私は成り立つだろうとしか言えないが、なぜ成り立つのか説明をしろと説明を求められた際には、恐らく適切な表現は出来ない。私にとってはその黒い正方形が描かれた絵画はそれだけの事であり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。
黒い正方形は、私にとって産まれたての赤ちゃんのようなもので、何も知らない純粋なものだ。そこにただ存在しているということを確認することが出来る。その感覚が芸術的な感覚や純粋な感情なのだと私は思う。
絶対主義の講義を通し、必ず、絶対に意味を見つける必要はないということを学んだ。時として、説明しきれない何かがこの世にはある。それが芸術の本質であり、私達の思考の究極である。説明出来なければならない、確認出来なければならない、実用的でないといけない、ということだけに囚われては、視野は広がらない。
そのような事が学ぶことが出来た。

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