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今でもあの頃のことは鮮明に覚えている。 マサ、ジンバ、ケンチ。 同じ年に同じ大学に入って、同じ日に同じサークルに入った三人。 マサはドラム。ジンバはギター。ケンチはキーボード。 バンドは別々だったが、暇さえあれば三人でセッションしていた。 「暑っ!もう無理。手が汗で滑って、バチが飛んでいきそうや。」 上半身裸のマサが、ドラムを叩くのを途中で止めて叫んだ。 「おめ、こっちに飛ばすなや、マサ! そうやケンチ、途中でなんかしたか? コードが、なんか変な感じになったと思ったら、
子どものころ、おばあが、おじいに自分の匂いを嗅がせていた。 「もうすぐか?」 「あぁもうすぐだ・・・」 おじいはそう言うと泣き出した。 「今までありがとうな・・・」 「わしこそ・・・」 おじいは子どものようにシクシク泣いていた。 おばあは幸せそうに微笑んでいた。 「一政さん、本当にありがとうございました。」 「・・・」 おじいは子どものようにオンオン泣いた。 幼い私には、これがなんのシーンなのかよくわからなかった。 ただ、そのあと、おばあは死んだ。 ずいぶん経ってから
バイトが終わった後、大学近くのいつもの居酒屋に、いつものメンバーで集まる。 「マスター!”といちんさ”ライムでグラス二つ!」 ゼミが常連ぽく注文した。私もそんなふうに注文してみたいと思うが、結局はいつも思うだけ。 「あっ私は・・・」 「イっちゃんはいつものウーロン?」 「はい・・・」 「はーい!ウーロンジョッキで大盛〜!」 ”といちんさ”は、ゼミとヘマがボトルキープしている地元の安焼酎。他のお店の仕組みは知らないが、このお店では、ボトルキープのお酒には、ライムジュース
ほどよく冷たく、ほどよく弾力があり、ほどよく優しい。 なんだったかはよく覚えていないが、なにかとても心地よかったように覚えている。 「これは・・・なんだったかな・・・」 「お父さん? なに? どうしたの?」 「・・・」 「気のせいか・・・」 あれはなんだったか?私はずっと触っていた。触っても触っても満たされることはなかったが、触っていないと満たされるという感覚からもどんどん遠ざかっていく。 だから触る。触る。触る。触る。触る。触る。触る。触る。触る。触る。触る
打ち合わせが早く終わったから、少し余裕を持って帰れそうだな。 名古屋駅に着いて名鉄に乗り換える。名鉄名古屋駅は昔とあまり変わっていない。薄暗い洞窟のような地下フォームにうっすらと香る油の匂い。少しホッとしたような寂しいような複雑な気持ちになる。 犬山線に乗って15分ほど。岩倉駅で降りてタクシーで実家へ向かった。駅からとても遠くにあったと思っていた家は、自分の感覚以上に近くにあって帰るたびに驚かされる。 私の実家は代々続く和菓子屋さんだった。 ”だった”というの
物心ついたら家にネコがいた。 幼い頃、ぼくは父親の両親の家、つまりぼくにとって父方の祖父母の家に住んでいた。その家には ”みつ” と呼ばれるネコがいた。みつはとても賢く、まるで人間のルールを理解しているかのような振る舞いをした。 横断歩道を渡る時は車が来ないことを確認して渡ったり、信号のある大通りの交差点では、歩行者信号が青にならないと渡らなかった。ある日、ぼくが「みっちゃんはおりこうさんですね」と言ったら、ニヤリと笑ってから「ミャウ」と言い返してきた。 トイレ
もう何回目になるのかしら。この家に来てからは3回目。前の家を合わせると10回ぐらい?もう覚えていない・・・ 私たちネコは、誰にも看取られず死ぬことができると、また子ネコに戻ることができる。子ネコに戻った後は、前に居た家に戻るものもいれば、別の家に行くもの、野良になるものなど、新しい生活を選択するものもいる。 私はこの家が好き。おじい、おばあ、そしてお父さんはとても優しい。けんちゃんは生まれた時から知っているから、私の子どもみたいに感じる。 時々怖い夢でも見るのかしら
また今夜も来る。また今夜もあいつが来る。そして私のことを鼻で笑う。 「ふんっ・・・」 母の入院中、あいつは2回目の脳梗塞で緊急入院した。普段から隠れてタバコを吸ったりお酒を飲んでいたようだが、母の入院で監視の目が無くなったことをいいことに、元の不摂生な生活に戻ってしまったようだ。その途端、脳の血管が詰まってしまい、半身麻痺の状態で入院した。その後、あいつは病状が回復し、多少の不便さは残るものの退院することができたが、肝心の母はそのまま帰らぬ人となってしまった。 母は
土曜のお昼、台所から何かを炒める音が聞こえる。 「さくらちゃーん、ご飯できたよぉー。」 おばあが呼ぶ。わたしはなんだか意地悪で返事をしない。特に何かしていた訳でないのに、なにか途中で邪魔された気持ち。三階の自分の部屋から二階のリビングへ行く。 おじいとおばあは、今年の2月に長年住み慣れた名古屋市西区奉公人町の家から、小牧の藤島へ越してきた。小牧にはおじいとおばあの仲良しの三津さんも秀さんもいないのに、さくらたちと一緒に住むことに決めた。だから寂しくなったおじいとおば
いつだったか、晩御飯の時にトンカツを頬張りながら妻が愚痴っていた。なんでも、ワクチン接種の問診票を、フリクションと言うペンで書いていったようで、窓口で若い看護師に指摘されたらしい。フリクションと言うペンは消すことができるので、公的な書類には不適と言うことが理由だそうだ。本人曰く、家の中にあるボールペンで、どれがフリクションでどれがフリクションではないか区別がつかないし、消せるボールペンで書くなとの注意書きもないのだから、そんなことは想定できるだろうと言うことらしい。しかも、
幼い頃、おじいに連れられて、円頓寺の近くにある中京菓子玩具卸売場、通称”問屋街”へよく行っていた。そこには、和菓子、洋菓子、駄菓子、古今東西のありとあらゆるお菓子や、花火、人形、プラモデル・・・この世の楽しいもの全部が揃っているような錯覚を、幼心ながらに覚えた。 おじいは和菓子職人だったので、毎日のように作った饅頭や最中を卸しに行っていた。おじいの饅頭や最中はとても人気があった・・・ 幼い頃の私は、毎日のようにここで遊んでいたんだ・・・ おじいがお仕事をしている間
この4月に、30年以上も勤めた会社、株式会社インターグリッドを辞めて、半年ほどぶらぶらしていた。ぼくは、地方の国立大学を卒業後、新卒でインターグリッドに就職した。だから、他の会社は知らないのだが、おそらくこのインターグリッドという会社は、ぼくにとって相性の良い会社だったのだろう。 株式会社インターグリッド。従業員数は連結で6万人におよび、世界24カ国に工場、研究所、支社を持つ巨大企業。ぼくが入社した時は従業員1500人ほどの中堅素材メーカーだったが、いつの頃からかM&A
昨日の夜、好きだった人の夢を見た。 こんなに好きな人は二度と現れないと思っていた。 ほんの数ヶ月だけ、そんなふうに思っていた。 同学年の同学科の彼は、二浪で二つ年上だった。そのせいか、少し大人びて、なにか気になる存在だった。般教のころは授業で顔を合わせる程度だった。専門に進級してからは少しだけ話をする関係になっていた。だけど、それだけだった。 2年の後期、学生実験の時、彼の言った何気ない言葉に心が響いた。 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 素敵な言葉だっ
幼い頃のぼくは、右手の親指を吸う癖があったらしい。 帝王切開で、まさに母親の腹を引き裂いて、この世に生まれた時から、ぼくは右手の親指を吸っていたらしい。 生まれた瞬間のぼくは、目を一瞬、かっと見開いたかと思うと、産み落とされた世界を品定めするようにあたりを眺めた後、何かに安心したかのように目を瞑り、そして産声をあげたそうだ。 その場にいた、産婆さんと手伝いをしていたおばあは、その光景を見て、とても驚いたと法事の時にみんなに話していた。 そのこととは無関係に、ぼ