#01 金ヶ江家 家系図
● プロローグ
こんにちは、こんばんは。十四代の嫁@みさです。今日は嫁ぎ先に代々伝わる「金ヶ江家文書」について、その1ページ目を開きたいと思います。
と、その前に!
金ヶ江家とは?と思っていらっしゃる方も多いかと思いますので、まずはそちらからご紹介しますね。
金ヶ江(かながえ)家とは
佐賀県西部に位置する有田町は、人口2万人弱の小さな町です。主産業は窯業・農業、コロナ禍に入るまでは観光産業にも力をいれつつあった地域です。800年の歴史ある農業地域の西地区と、400年の歴史がある窯業を中心としていた東地区の二つに分かれていたのですが、`平成の大合併’でひとつの「有田町」になりました。
西地区の歴史については、またそのうち別枠に書くとして…今回は金ヶ江家に関わる東地区を中心としたお話になります。
金ヶ江家は、400年前 朝鮮半島から渡来した陶工集団の1グループが名乗った苗字です。その集団の頭(代表)の名を『金ヶ江三兵衛(かながえ さんべえ)』といい、有田焼の原石を発見したとされる 李参平 と呼ばれています。
初代から 令和2年の今まで「金ヶ江三兵衛」の名を代々と受け継いでおり、当代は十四代目となっています。
家系図はコチラ↓
● 金ヶ江家家系図
初 代 三兵衛(初代 李参平)
朝鮮忠清南道金江人帰化
明暦元年(1655年)8月11日卒 戒名「月窓浄心居士」
二 代 始 与助左衛門 三兵衛
宝永元年(1751年)1月26日卒
三 代 始 惣太夫 三兵衛
享保9年(1724年)2月卒
四 代 三兵衛
明和元年(1764年)10月卒
五 代 始 惣太夫 三兵衛
明和6年(1769年)12月19日卒
六 代 惣太夫
文化3年(1806年)10月卒
七 代 三兵衛
天保6年(1835年)7月19日卒
八 代 惣太夫
嘉永元年(1848年)8月21日卒
九 代 三兵衛
万延元年(1860年)4月21日卒
十 代 義三郎
明治17年(1884年)5月21日卒
十一代 米助
明治42年(1909年)10月2日卒
十二代 義平
昭和25年(1950年)12月7日卒
十三代 義人 大正9年3月3日生
平成29年2月20日卒 戒名「本願義興居士」
十四代 省平 昭和36年1月9日生
● 初代 金ヶ江三兵衛に関する文書
初代に関わる文書は、数えるほどしかありません。佐賀県多久市に保存してある「肥陽旧章録」、長崎県三川内にある「今村家文書」の一文、同町龍泉寺にある「過去帳」そして「金ヶ江家文書」4服です。
マガジン「金ヶ江家 令和文書」では、
初代に関する内容は古文書を元に、
嫁の脚色もあり
十四代まではこれまでの活動と、
嫁の願いも含め
年号の順を追ってご紹介します。
※古文書・歴史に関しては、絶対はありません。特に400年も前となると何が正しくて 何が間違ってるかなんて、誰も答えを出すことは出来ません。研究が進み新しい文書の発見など史実が明確になることで、それまでの解釈が間違っていたと認定されることも多くあります。そのことに注意してお楽しみください。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?