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11/26『普通』に戸惑い執着してた話。

普通にしてるつもりなのに、
どうしてもはみ出てしまう部分が気になる。
のは、私の感覚。

周りの人達からすると、
(はみ出てるのに普通だと思ってるんだ…)
(´-`).。oO
らしい(認知のギャップよ。笑)

この認知の違いがそもそもある、と認めていたら
『違う』のは嫌だと恐れ
曖昧な『普通』に憧れなくて済むのになー。
文化という遺伝的環境(部族的信念)のなかで
どんな言葉を浴びて間に受けてきたのか、
お察しいただける事だろう。

「てゆーかそもそも『普通』とは?」
子どもの時からそんな事を考えていたのだけど
問いを投げると
考えることも不要としていたのか
親をはじめサンドウィッチマンの様に
「ちょっとなにいってるのかわかんない」と変な子扱い。
下手すると逆ギレされる始末。
昭和の世にはまあ扱いづらかったのかもなあ。

ただただ流れるTVでは
『違う』を何故とする事が不思議で、
好むのはドキュメンタリーやルポ系記事。
知らないからこそ飛び込んで記録され
筆者の個人的な感覚が照らし合わせてあり
主語が無駄に大きくない事が好きだ。

仕事というものに対してもその感覚は強く、
19で【休みが自由】という理由で夜の世界に入ると
世間でいうところの『普通』は
見える部分なのか、見えない部分なのか
さらに混乱したけれども。

個人的経験に基づいた事を
無意識に普通だと述べられているのだと知り
「普通」に戸惑い取り憑かれていた事にも気付き
得られたのは「おいおいマジかよ」の徒労感。
おつかれ!私。

結論
「全方位普通」は無いので
私の普通という輪郭を明確にする。

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