蝉、聴覚で感じる季節感

七十二候は寒蝉鳴(ヒグラシなく)、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
ヒグラシがなく頃、ですが、バトンタッチする前に蝉ついて綴っておきましょう。

閑さや岩にしみ入る蝉の声
この松尾芭蕉の一句からは、山の中の広い空間の中で鳴り響く蝉の声がイメージできる。
でも、そんな優雅さを漂わせた夏の風物詩としての蝉の鳴き声は、私にとって幻想でしかない。
というのも、我が家では耳をつんざくほどの音量の蝉の合唱が聞こえてくるから。公害レベルと言っても過言ではないほど。だけど、毎年耐えているのは、蝉の人生が短いから。そこに憂いを感じるのではなく、耐えうる期間であるというだけ。

実際、密かにいつか近所に中国の山東省出身の人が引っ越してこないか、と望んでいる。なぜなら、彼らは蝉を食するから。しかも幼虫を!
地上で私の耳を痛めつけるべく羽根を震わせる前に狩り取っていってほしい。
しれっと言ったけど割と残酷な情景なのは重々承知。
でも、そんな望みを抱いてしまう程のうるささなのであります。

とはいえ、冷静に考えると森で採れたら「山菜」という付加価値が付く草も、都会ではただの雑草であるように、街中の蝉を食べはしないでしょうから、新たな隣人が来てもノイズキャンセリングのヘッドホンは夏の必需品のままでしょう。

蝉といえば、切っても切り離せないのは『グラスホッパー』。
伊坂幸太郎さんの小説に登場する殺し屋の一人です。
何故あんな物騒な話を私は愛してやまないのか、我ながら不思議だったけれど、きっとエミネム聴いたら落ち着くのと同じ効果なのだろうと推測。
自分と対極にあるもの、自分に無い物を補う、的な。
エミネムは世界への憤怒を口荒く超早口で捲し立てる(正直歌詞を理解しようと努めていないけれど強ち外れてはないはず)という、私には到底出来ない離れ業しているが故のヒーリング効果なのだと分析。
そして、彼のように早口の人がいるなら、私のように遅口(という表現はあるのだろうか)の人がいても良いよね、むしろプラマイゼロでバランスちょうどいいよね、という勝手な解釈で自分への慰めにしている。

そんな蝉もどんどんとミュート時間が増え、夏も終盤に差し掛かっていることを感じさせる。あれよあれよという間にツクツクボウシやヒグラシにとって代わり、気付けば秋、そして大好きな冬が来る。
と、未来に眼差しをむけるのは、夏バテで死にかけている自分を鼓舞しようとする本能の働きでしょうか。

ちなみに、最近まで「鼓舞」の読み方が「こぶ」ではなく「こまい」だと思っていた。変換で出てこなくて初めて知る事実。
コマイは魚ですね。あるいはコマイヌ。

では、終わりゆく夏に喜々としながら、今日はこの辺で。
ごきげんよう。

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