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ピアノの先生

ピアノを弾く時どの指で弾くだろうか。手を開き5本ある指を眺めてみる。長さで言えば中指が1番弾きやすそうだ。ピアノを嗜む方は5本どころか、10本全てを鍵盤の上に滑らせるのだろう。

私は人差し指派だ。パソコンの画面に文字を打ち出す時は手元を見ずとも正しい指使いができる。しかし、ピアノは赤ん坊が親指を吸うように、私は人差し指が安心するのだ。

「ちょうちょ」も「きらきら星」も人差し指だが、唯一の例外がある。小学校の授業で誰しも歌ったことがあるだろう。「ドレミの歌」だ。

「ドはドーナツのド、レはレモンのレ。」
ドからドまでの音階を言葉遊びのような歌詞でまとめられている。伴奏もドからドまでだ。ああいや、高いレも1度だけ出てくる。音の高さには名前がある、というのを教える為には最適な曲だと言えよう。

ある時、小学生の私は暇を持て余していた。母と大型ショッピングセンターに来ていたのだ。母親の買い物というものは子供にはつまらない物。私は早々に母から離れる事にした。

店から1歩外に出て周りを見渡すと、長屋のように店が隣合ってひしめいている。私は其方には興味が持てなかった。目の前にもっと心惹かれるものが、私を手招いていた為だ。

それは三本足の学校でしか見ない、グランドピアノだ。いつもは季節の売り物を置いてある開けた場所に巨大なピアノ達があちらこちらに佇んでいた。そのどれもが、私の顔が反射するほど磨きあげられ、どこか誇らしそうだ。作法を知らない私はピアノの王様達に無遠慮に近づいた。

私の体には、いささか大きい椅子によじ登る。重たい蓋をそっと開くと、白い鍵盤がにっこり笑って私を迎えた。適当に真白い歯を押すと、重厚そうな見た目に反して軽やかな音で返事が帰ってくる。楽しくなってきた私は、最近習った「ドレミの歌」を弾くことにした。

まずはドレミ、次はレ?違う、じゃあファ?
私は何度もドレミ、と最初の3音を繰り返して正解を探していく。この曲を学校で1度も演奏したことが無かったのだ。何度も頭の中で歌を巻き戻し、指を動かしていく。
どれくらい掛かったか分からないが、やっと最初のドーナツのドを捕まえた。次はレモンのレを収穫だ。
しばらく私は音符を捕らえる作業に没頭した。

チアリーダーからファイトのファを受け取った時だったか、ソの青い空を仰いだ時だったか。

「その音はね、ここだよ。」

なんと、顔も見知らぬ救世主から声をかけられた。
もう、若い女性だったか年老いたおばあさんだったかも思い出せないが、女性は女性だった。同じ子供では無かったのは確かだ。

何度も先頭に戻ってくるこの拙い音楽を哀れに思ったのか。

その親切な人は、私の傍に立って私のめちゃくちゃなドレミの歌を整理してくれた。
私も、音符を追いかけるのは面白かったが、苦労しないに越したことはない。私はその人を素直に受け入れた。
「指はね、この三本の指をこう置くと弾きやすいよ。」
ドレミの時に使う指を、レミファの時にも使う。

革命だ。私に稲妻の如き衝撃が走った。

今まで人差し指を指揮棒のように忙しなく降っていたのが、三本指が手を取りあい、踊るような優雅さを見せていた。

指使いの「ゆ」の字も知らなかった私にとっては感動物だった。

思わず夢中になったのは仕方ないだろう。女性は私より右側に立ち、お手本として弾いてくれた。私はそれをマネして鍵盤を叩く。

この2人の演奏会は長い時間のように感じたが、ほんの数十分程度だったのだろう。

「こんな所に居たの!」

演奏会の幕引きが訪れた。母が迎えに来たのだ。
私は母に手を引っ張られ、席を立った。

あの時、私は親切な人に礼を言っただろうか。

母にさっきの人と何をしていたかと聞かれたので、ドレミの歌を弾いていたら教えてくれてたのだと答えた。

「ピアノの先生だったのかもね。」

ピアノの先生、そうか。
母の言葉に納得した。ピアノを教えてくれたあの人は先生だったのだ。
「ピアノの先生」が出来た瞬間だった。その後もピアノを習うことがなかったので、たった1人の先生だ。

今でも私は「ドレミの歌」を三本指を使って奏でることができる。

私は名前も知らない、輪郭も朧気なピアノの先生を尊敬している。

ピアノを見る度、思い出す。
シは幸せよ、さあ歌いましょう。

おしまい

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