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「萌え」という現象についての評論の本を企画しました。こんな内容の本があったら読んでみたいですか? なお、本書で分析の対象とする「萌え」の範囲ですが、主に萌えオタクとボーイズラブ(BL)愛好家に関するものに限られます。また、「萌え」の対象となるアニメ作品やマンガ作品を論評することは本書の目的ではなく、あくまで、「萌え」の感情、行為、機能——といった現象面についての評論です。
※この目次案をここまでまとめられたのは、天狼院ライティング・ゼミと、宇野常寛さんの「遅いインターネット」プロジェクトの一環である、PLANETS School によるところが大きい。

【全体の趣旨】

アニメやマンガ、ライトノベル、ゲームなど、若者が消費の中心であるジャンルはサブカルチャーと呼ばれる。サブカルチャーとは読んで字の如く、主流の文化(小説、映画…)に対する下位文化のことである。しかし1970年代にそのサブカルチャーの直中から生じ、後に「萌え」と呼ばれるようになった現象(女性の「萌え」の中心はボーイズラブと呼ばれる男性同性愛を描くジャンルであり、男性の「萌え」の中心はかつて「ロリコン漫画」と呼ばれた幼女や少女をヒロインとするジャンルである)は、その実態をつぶさに分析すれば、日本文化と西洋文化両方の流れを受け継ぐ「文化の本流」とも言えるものなのである——というのが本書の独自の見解だ。

「萌え」のルーツの一つは利休が深化させた「侘び寂び」であり、もう一つのルーツは明治時代に日本に紹介された情熱恋愛である。今まで無関係と見なされてきた「侘び寂び」と情熱恋愛の両方において、「結晶作用」という精神の働きが共通して重要な役割を果たしているという考察は著者独自のものである。

オタク論やBL論に関心のある読者だけでなく、日本文化論、比較文化論に興味のある読者にとっても本書の分析は新鮮な驚きを与えるだろう。「萌え」が「普通のこと」になった時代にこそ再考したいテーマがここにある。

【はじめに】

この章の目的は、上に記した本書の概要を読者に伝えること。もし、日本における「本流」の文化の衰退と「サブカルチャー」の隆盛を象徴するような出来事や統計などがあれば、紹介すると良いだろう。

また、本書で取り扱う「萌え」の範囲と、どうして男女の「萌え」を一緒に論じるのか、また日本において「女性が少年に萌え始めた」時期が、「男性が少女に萌え始める」よりも早かったこと、萌えオタクと、そうでないオタクの違い、についてもここで説明しておく。

本書で「萌え」のルーツとして着目する日本的美意識とは、主に「侘び寂び」などの、表現の抑制によって読者の想像力を掻き立てるタイプの美意識であることを述べる。

【巨乳好きは豊富秀吉の成金趣味に通じ、ギャップ萌えは千利休のわびさびに通じる】

この章の目的は、本書全体にとっての「つかみ」である。そのため、もっとも意外なところから攻める必要があった。「萌え=恋愛」よりも「萌え=日本的美意識」の方がはるかに意外だろう。

◆ 巨乳好きと秀吉の成金趣味

目的:巨乳好きと秀吉の成金趣味の共通点を指摘する。

巨乳好きと豪華絢爛なものを好んだという秀吉の趣味には共通点がある。まず、どちらも、そのような趣味を持たない人から見ると、異様なものに映るということがある。また、どちらも欠乏への恐れを背景に隠し持っているのと同時に、「美点は多ければ多いほどいい」という単純さに基づく。巨乳好きや女性の裸体に性的に惹きつけられるのは男性だけではないことも指摘する。

◆ 「萌え」とわびさび

目的:「萌え」と利休の侘び寂びの共通点を指摘する。

利休がわびさびを提唱したのは、秀吉の成金趣味へのアンチテーゼとしてであった。「萌え」が生まれた1970年代は、週刊誌に女性の裸体のグラビアが溢れるようになった時代である。その中で、女性による「萌え」の作品群であるボーイズラブ(BL)も、男性の「萌え」である「ロリコン漫画」も、共に「大人の女性の裸体」の描写を避けることでジャンルとして成立した。近年の研究によれば、「大人の女性の裸体」は、男性にとってだけでなく、女性にとっても、簡単に強い性的刺激が得られるモチーフである。このように、強すぎる光源としての「大人の女性の裸体」の封印は、もっと微妙な精神的陰影を性愛において描き出そうとする表現上の工夫と言えるのではないだろうか? その意味で「萌え」は、主流のエロティシズムへのアンチテーゼであったし、今もそうである。つまり、「萌えコンテンツ」が大人の女性の裸体の描写を避け、少女や幼女を好んで描くのは、決して小児性愛的な欲望からではなく、むしろ「表現の抑制」であり、相対的な「禁欲」であると考えられるのだ。ところで、女性にとって女性の裸体の禁止が果たして「禁欲」にあたるのか? という疑問を持たれる方もあるだろう。BLにおいても、「攻め」ではなく「受け」の魅力が作品全体にとっての「花」であることを指摘し、そこに女性の裸体を描かないことは、女性にとっても強い刺激を避ける「抑制」の効果があることを解説する。1970年代、学生運動によって革命を起こそうとした若者たちの間でも旧態依然とした男女差別が行われていたことが判明し、世に失望が広がっていたことにも触れる。

◆ ギャップ萌えと利休の朝顔のエピソード

目的:利休が一輪の朝顔を引き立たせるためにとった大胆な手法と、「ギャップ萌え」がいかに似ているかを指摘する。

成金趣味や巨乳好きのように、「美点は多ければ多いほどいい」と考えるのではなく、重複を避け、一つの美点を際立たせるために、あえてそれ以外の部分は地味に仕立てる、という点で両者は同じである。ギャップ萌えの例として、男性向けから「喪女萌え」、「ボクっ子」を取り上げ、女性向けから、「ヤクザ」「性被害の過去を背負った受けの主人公」というモチーフを取り上げる。

【日本文化論のミッシング・ピース】

明治時代、日本人は恋愛に「崇高なもの」を見出す西洋の精神に驚き、西洋人は日本人の茶会への情熱に驚いた。

この章では、明治期に「恋愛」概念が日本に輸入される以前、日本人が茶の湯などの日本的芸術に情熱を注いできたことを指摘する。

◆ 西洋的恋愛の情熱と日本的芸術の情熱

目的:西洋的恋愛の情熱と日本的芸術の情熱の類似性と違いを示す。恋愛の情熱が追求するロマンとは、かつて断念した理想の生、理想の自分、自分が自分であることだけで愛されるという理想の状態、理想の美(恋人の美)を手に入れようとする情熱である(竹田青嗣)。俳句や茶道は、捉えどころのない人生の時間を短く切り取ることで、一つの理想の生の場面、一つの理想の出会い、美の瞬間といったロマンを現実化しようとする試みである。

◆ 恋愛における結晶作用とは

目的:恋愛において結晶作用の果たす役割について解説する。竹田青嗣『恋愛論』より。恋する人は、恋人の何気ない仕草や表情や、出会うものの全てを、結晶作用により「美点」として受け取る。結晶作用は恋愛の始まりにとって欠かせない。人は、この世では決してありえないと諦めていたロマンを、この世で実現し得る可能性を恋人の美の中に見る。

◆ 日本人にとっての芸術とは

日本の伝統的芸術(茶、歌、俳句)には、わざと情報を少なくする、物事を曖昧に暗示するに留める(余白や間の重視)という表現法上の特性がある。また、左右対称などの均整のとれたものを嫌い、動きを予感させる構図を好む。つまり日本的芸術は、「完成された作品を受け手がただ受け取る」というモデルには合致せず、「未完成の作品を受け手が自らの想像力で補い完成させる」というモデルに当てはまるということである。言い換えれば、日本的芸術の作り手は、敢えて作品を未完成に留め、受け手の結晶作用を発動させる余白を作る、ということである。

◆ 日本的芸術を介した人間関係

日本的芸術を介した人間関係の特性。それは性的な関係ではないが、恋人同士の関係と似た濃密さに満ちている。それは、美という絶対的で崇高なものの前に、参加者がこの世の身分の違いを乗り越えて契りを交わす儀式、という側面である。

【「萌え」はどこまで恋愛か?】

この章の目的は、「萌え」が恋愛としての性質も十分に持っていることを明らかにすることである。

◆ オタクの語りの無意味さの意味するものは?

大澤真幸は、オタクの語りの「意味の希薄さと情報の濃密さ」のアンバランスを指摘した。このような語りは、恋している人のそれではないだろうか。恋に落ちた人は、その恋が自分の生きる意味であること、そして、恋人という存在は取り換えが効かないことを直感的に知っているが、その理由を言葉で説明することはできない。だから、説明にならないとは知りつつも、自分にとっての恋の対象の特徴のすべて(その人にとってはすべて美点と感じられている)を列挙しているのではないだろうか。

◆ オタクの戯画的・自虐的なメタ認知

「腐女子」や「萌え」といった言葉は、非当事者からの蔑称ではなく、当事者たちが戯画的・自虐的に自称することで広まった言葉である。この自虐の意味は何だろうか?  一般的にはこの自虐は、「現実の恋愛ではなく、萌えに没頭する自分を恥じての自虐」と誤解されている。恋に落ちた人は、その恋が、恋から醒めた日常の意識にとっては狂気であることを自覚しているものだ。萌えオタクやBL愛好家は、自らの醒めた意識から、自らの恋の狂気を卑下しつつ、同時に愛しているのだ。

◆ 性別を越えた感情移入を前提としたエロコンテンツ

BLや萌えコンテンツのすべてがエロコンテンツというわけではないが、これらのジャンルでは、エロコンテンツであっても、読者の性別を越えた感情移入を前提としている。これは、一般的なポルノ(レディースコミックや男性向けエロコンテンツ)と異なる点である。男性の証言は、永山薫『エロマンガ・スタディーズ』より。BLの例では、 BLを読んだり書いたりする女性たちが受けだけでなく、攻めにも感情移入をしている、という事実がある。「エロティックな欲望が、他者の体を利用して自らの自己中心性を最大化する」(竹田青嗣)ものであることから、一般的なポルノが読者の性別に合致した登場人物への感情移入を前提に作られていることは理に適っている。一方恋愛の欲望においては、恋人の幸福、恋人の快楽がなければ自分の欲望も満たされることはないのであって、自分の幸福のためにも欲望の対象である他者に感情移入をすることは自然なことである。だから、BLや萌えコンテンツであるエロコンテンツが、性別を越えた感情移入を前提としていることは、このジャンルがエロティシズムではなく恋愛の欲望を満たすために存在していることを証明している。(恋愛においては、エロティシズムとプラトニズムが両立する)

◆ 男女平等な恋愛の追求

愛とは、「存在意味の合一」と「絶対分離的尊重」の弁証法である(苫野一徳)。BLや萌えコンテンツにおいて、「男女平等な恋愛」というテーマが見られることは、このジャンルがエロティシズムの欲望ではなく恋愛の欲望を満たすために存在していることを証明している。

◆ オタクのハマり方の他律性、ハマる対象の取り換えがたさ

2018年、「糀おろし」が一般人のハマり方とオタクのハマり方の違いを図解したマンガが、twitter上で共感を集めた。これはオタクのハマり方の他律性と、オタクがハマる対象の取り換えがたさを表現したものであった。恋する人にとっての恋人の取り換えがたさを、恋愛の「絶対感情」という(竹田青嗣)。また、恋の始まり方の他律性(自我にとっての制御できなさ)も恋愛の基本的性質とされている(大澤真幸)。オタクが対象へのハマり方には恋愛の特性が表れていると言えるだろう。

【「萌え」が恋愛であると同時に日本的芸術でもあるということ】

この章の目的は、「萌え」が恋愛であると同時に日本的芸術でもあるということから生じる事態について紹介し、確かにそうだと納得してもらうことである。

◆ 「萌え」の対象は、恋愛と日本的芸術の中間

恋愛の対象は特定の他者であり、日本的芸術における賛美の対象は、芸術作品または、芸術を媒介とした人間関係の場である。オタクにとって「萌え」の対象は特定のキャラクターである。キャラクターは人間と芸術作品の中間的な性質を持っている。

◆ 二次創作されることを狙った作品の発表

近年日本では、オタクによって二次創作されるかどうかが、作品の人気自体を左右するようなインパクトをもつようになっており、最初から、萌えオタク受けや腐女子受けを狙った作品作りがされることもあると聞く。このような作品は、「完成された作品を受け手がただ受け取る」というモデルと、「未完成の作品を受け手が自らの想像力で補い完成させる」というモデルの中間と言えるだろう。

◆ 「萌え」は恋愛であることから、個人的な性格を持つと同時に、日本的芸術であることから、社会的な性格を持つ

萌えオタクやBL愛好家の当事者は、自分が当事者になったことの理由として、精神的な病気、特殊な性的アイデンティティ(性的嗜好、性自認や性的指向の違いを含む)、深刻な親子関係の問題を抱えていたことなどを挙げている。彼らは、自分のアイデンティティをそれとして認め受け入れることができるようになるまでの間、それらをコンプレックスとして抱えこむ。このようなモラトリアムの期間、彼らは自分のアイデンティティを明かして現実の他者と関係を持つことが困難であり、モラトリアムを脱して、アイデンティティの確立へと進むことが困難であると言えるだろう。当事者の証言によれば、「萌え」は、このような困難なモラトリアムにある人が、疑似恋愛を通じて自己理解や自己受容を深めていくことの助けになっていると考えられる。また、深刻な親子関係の問題を抱えた人にとっての、「親殺し」の過程を助ける面もあると考えられる。恋愛には恋する人に「力と意味」の感覚を与えてエンパワーメントするという側面があるからだ。

また、「萌え」の社会的な性格により、同じキャラクターや作品を愛する者同士は、「好きなもの」の話題を通じて簡単に濃密な関係を持ちやすい。このため、困難なモラトリアムにあり、現実の関係から引きこもっている個人が、作品を媒介にした現実の人間関係(例えばファンの集い)を入り口として、現実の人間関係に復帰する、ということがある。

◆ 「萌え」が個人的な性格と社会的な性格を併せ持つことから生じる混乱

「萌え」においても、他の日本的芸術分野と同様、「通」や「名人」といった概念が成り立つ。例えば、BLの通はBL初心者が、受けにしか感情移入せず、BLを少女漫画と同じように読んでいることを揶揄し、自分たちは違うと語る。あるBL漫画のアマゾンレビューでは、手放しで作品を礼賛するコメントの隣に、「BLでないと描けない何かを描いた作品ではない」「この内容なら少女漫画にすればいい」といった悪評が並ぶ。「通」たちは「BLを描くならBLでしか描けないものを描くべきだ」という価値観を持っているのだ。あるとき知恵袋で、「どんなBLがオススメですか?」との質問があり、回答者は、「どうしても読みたいと思う何かがないのなら、読まないでください。例えば流血が嫌いな人が、流血表現の多い性的描写のある作品を勧められた不快になるでしょう? あなたがいいと思うものを読めばいい。そんな質問をすること自体おかしい」というような回答をしていた。質問者が社会的な意味での「萌え」を念頭に、「通」な回答を求めて質問したのに対し、回答者は個人的な「萌え」を念頭に答えたため、このような齟齬が生まれたと言える。

【おわりに】

未定

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